世界アーカイブの日 | 『程瑞芳日記』「発掘」記
2001年12月真冬間近の南京では、中国第二歴史アーカイブ研究館館員の郭必強さんは机に向かって日常業務をしていた。突然、ドアが開いて、手に黄ばんだ資料を持っている何人かの人が入ってきた。「郭先生、これは私たちが金陵女子大学のばらばらなファイルを整理した時に見つけたもので、南京大虐殺に関するファイルかもしれませんので、どうぞご覧になってください。」
郭必強さんはそれを受け取って調べてみると、表紙に「1937年、首都失陥、金校を留守した同人の一部の日記」と書いてあり、だいたい3万字ぐらいの日記だとわかった。一気に読み終わった郭必強さんは怒りのあまり、机を叩いて立ち上がったり、黙って行ったり来たりして、その気持ちは日記を書く人と一緒に無力に怒り、悲しんでいるようだ。
これはいったい誰の日記なのか、何が記録されて、何が特別なのかといったことを明らかにするために、この世界アーカイブの日に、記念館は郭必強さんを招いて、観衆にその物語を語ってもらうことにした。
一冊の日記は何が特別?
中国第二歴史資料館は金陵女子大学(1930年に金陵女子文理学院に改名)が残した千部ぐらいのばらばらになったファイルの整理を始め、埃だらけのファイルに向かって、スタッフは誰もその中に宝物があるとは思わなかった。
この黄ばんだ日記はとても普通すぎて、最初は注目されなかったが、一年近く経って、細かく整理する過程でついにその存在が発見されたと郭必強さんは話した。
「これは中国人が記録した南京大虐殺の日記です。記述した具体的な時間は1937年12月8日から1938年3月1日までの期間です。」
12月13日、「本当に惨めだ。明日はまた何があるのかわからない!」
12月14日、「今日来た人がもっと多い。全て安全区内から逃げてきたのだ。日本兵が昼間に彼らの家に入ってお金を盗んだり強姦したりするからだ。街では刺殺された人は少なくない。安全区内もそうで、外は更に多いから、誰も街に出る勇気がない。刺殺されたのは大半若い男性だ。」
12月17日、「今は夜の12時、ここに座って日記を書いているから寝られない。今晩は亡国の民の恥辱を体験させられたのだ。」
12月18日、「本当に凄い、これらの日本兵は凶暴すぎて、人を殺すし、老弱問わず強姦するし、悪事ならやらないことはない。」
12月22日、「路上で横たわる死体は見てもらわないし。ある道は道が見えないほど死体で埋めている。まるで中国人を人間として扱わない。」
12月29日、「今、日本兵は道路を整理している。死んだ人を埋めるか焼くかで処理する。街で死んだ人が多すぎる……」
驚愕で血まみれな文字だ。読み終わった郭必強さんは内心では悲しみ、怒り、無力さでいっぱいだ。「この日記が描いた内容は詳しく、情景がリアルで、日記の持ち主は日本軍の焼殺淫奪の暴行を直接見たはずです。」
この日記の主人は誰?その人を見つけてこの全てを証明できるのか。郭必強さんは封筒の署名――陳品芝に目を向けた。
しかし、資料館のスタッフによる調べでは、それは陳品芝の書いたものではないことがわかった。陳品芝は金陵女子文理学院の生物学の教授で、南京失陥前、学生を連れて武漢に行ったということである。
日記の記載した内容によって、郭必強さんは簡単な分析を行った。「この日記はちょうど金陵女大のファイルの中にあることから、その本当の持ち主は学校で生活した教職員だと推測します。」
その本当の持ち主を探り出すために、スタッフが見つけ出した『金陵女子文理学院教職員録』には南京に留まった六名の教職員の名前が載っている。日記の作者はその中にいると郭必強さんは推測した。
「この六名の中では、惠迪穆はアメリカ国籍で、陳斐然、李鴻年は30代の男性、鄔静怡女史も30歳ぐらいの若さでした。日記の内容ではその孫が金陵女大でボランティアに参加しているから、孫の年は10歳を超えていると思います。この程瑞芳だけが60歳ぐらいで、日記で描いた内容にもふさわしく、相対的に安全な立場にいる知識人だという前提にもふさわしいです。」と郭必強さんは言っている。
2003年の夏、郭必強さん一行は程瑞芳と陳品芝二人の履歴書にある肉筆のサインのコピー及び日記表紙と内頁のコピーを持って、江蘇省公安庁筆跡鑑定センターに行って、筆跡鑑定を行った。
「鑑定の結果、日記内頁の筆跡は確実に程瑞芳のもので、表紙のそれは陳品芝が書いたものです。つまり、日記の作者は程瑞芳でその代わりに保管したのが陳品芝だということが判明されました。」
程瑞芳(1875-1969)、湖北武昌生まれ。金陵女子文理学院難民収容所建立後、金陵女子文理学院の寮監としてヴォートリンに協力して難民収容所を管理
郭必強さんは程瑞芳の筆跡からその心境を少し探ることができた。「程瑞芳の墨跡はいつも濃いところからインクがなくなるまで書いて、そしてそれが突然濃くなりまた浅くなると見えます。つまり、彼女は日記を書く時、インクがなくなってからはじめてつけたわけです。それはきっと表現する気持ちが多すぎて止まらなかったからだろうと思われます。その筆跡はまた特徴があります。つまり、多くの段落は何回か分けて完成させたことが分かります。当時はきっと動揺した状況に遭って日記を書く考えを乱されて筆を止めざるを得なかったに違いないと思われます。程瑞芳が置かれた環境の劣悪さが分かります。」
程瑞芳(右)が金陵女子文理学院で避難する女性の生活のための糸紡いを手伝っている
日記はどうやって保存された?
1938年3月1日に留まった程瑞芳の日記はどういう経緯で中国第二歴史資料館にあったのか。
郭必強さんはこう話している。当時の南京城の状況では、それが一旦侵華日軍に見つかったら、きっと焼き尽くされるし、彼女も命が危なくなるだろうと思われる。1938年、金陵女子文理学院は四川省成都華西垻に引越した。安全のために程瑞芳は国際友人に日記を成都まで持っていくようにと頼んだのかもしれない。
「日本が投降した後、学校が南京に移転しました。日記もその時に再び南京に戻ったはずです。その後、学校の多くのファイルと共に、20世紀の60年代に中国第二歴史資料館に密封して保存されました。」
程瑞芳は後にどこへ?
郭必強さんは、「1946年、極東国際軍事法廷が侵華日本軍の犯罪証拠を集めた時、71歳の程瑞芳が英語の証言を書き、その中で日本軍がキャンパスでの強姦、強盗、虐殺などの多くの犯罪を列挙しました。」と言った。
1952年、77歳の程瑞芳は湖北武漢の実家に帰った。1964年、90歳の時に招かれて再び金陵女大の旧跡に戻った。1969年武漢で逝去、享年94歳である。
この日記はいったい何の価値?
「南京大虐殺を直接経歴した日記に、第三者国家の人が書いた『ラベー日記』、『ヴォートリン日記』があるが、『程瑞芳日記』は初の中国人が直接見て聞いて経歴して記録した南京大虐殺の日記です。日記とは実録性のある史学資料で、他の文献資料より更なる信憑性と正確性があります。」
金陵女子文理学院難民収容所のスタッフたちの記念写真(前列左五は程瑞芳)
『程瑞芳日記』、『ラベー日記』、『ヴォートリン日記』は互いに南京大虐殺の真相を裏づけあい、その完全で重要な鉄証になっていると郭必強さんは指摘している。
「例えば、難民収容所の責任者の陳斐然が日本軍に殴られたことは『程瑞芳日記』にも『ヴォートリン日記』にも記録されている。1937年12月17日、ヴォートリンは‘陳さんは私を助けようとして口を開いたため、日本兵にひどく殴られた’と書いたし、程瑞芳も‘陳斐然は華(注:華群、ヴォートリンの中国語名前)が知らないのを恐れて、クーりーだと言った。その時、日本兵が彼をビンタし、足で蹴って、更に向こうまで引きずって立たせ、また跪くようにさせられた。彼は口を開かなかったら、殴られなかった。’と書いた。」
また、二人とも日記の中で陳斐然の息子の誕生祝いのことを記録している。「1938年2月12日、ヴォートリンは‘私たちは上海から持ってきたミカンとポップコーンを食べて、陳さんの息子さんの誕生を祝った’と書き、程瑞芳も‘今日はまた船が来て、上海からメッセージが届いた。嬉しいし、食欲も出た’と書いた。」
程瑞芳(右)とヴォートリン(中)、陳斐然(左)との記念写真
郭必強さんはまた、このように『ヴォートリン日記』或いは他の日記と呼応できる段落は『程瑞芳日記』の中にまだたくさんあり、それらの事実が交差して、完全で反論できない証拠チェーンを形成したと指摘している。
この日記はどんな役割を発揮している?
「南京大虐殺ファイルがユネスコに世界記憶遺産を申告した時、この日記は重要な役割を果たしました。それが最初のファイルサンプルです。」と郭必強さんは言った。
『程瑞芳日記』など南京大虐殺ファイルの世界記憶遺産の申請過程において全過程に参加した郭必強さんは、途中で様々な困難やプレッシャに遭遇したにもかかわらず、決して諦める気は一回もなかった。「私にとって、これは仕事だけでなく、担うべき義務だと思っています。これらの資料はより多くの人々に知って、覚えてほしいです。」
「程瑞芳はいい教育を受けた成熟した女性です。彼女の記録は繊細で生き生きとして、読者に強い歴史的体験を感じさせ、後世に南京で最も暗い日々をより明確で具体的、全面的な認識を持たせることができます。この日記はより多くの人に覚えられる価値があります。」