世界の読書日 歴史学者について国際義士の物語を読む
今年の世界読書日の当日、『ロバット・ウェルソン』という本を持って紫金草平和講座にゲストとして招かれた南京大学教授の姜良芹先生は観衆にウェルソン医師の義挙を語る。学生、教師、観衆、歴史学者など講座に耳を傾け読書でエネルギーを取り入れておく。
南京に留まった西洋人の中で比較的特別な人であるロバット・ウェルソン氏はアメリカ人だが、南京に生まれ、ここで子供時代と少年時代を過ごしたのである。
1906年から1922年までの16年間ずっと南京にいたロバット・ウェルソン氏は流暢な中国語を喋ることが出来る。「ロバット・ウェルソンは少年時代から賽真珠の生徒になった。優れた家庭条件と南京の濃厚な人文雰囲気は彼に良い教育環境を与えた。」と姜良芹先生は述べた。
1923年、17歳のロバット・ウェルソン氏は南京を離れて、アメリカのプリンストン大学(Princeton University)に入った。後にハーバート大学医学院に進学して1929年に医学博士号を獲得した。
ウェルソン(右より一人目)とクラスメートとの集合写真
1936年1月南京に戻ったウェルソン氏は鼓楼病院の外科医師になった。ウェルソン夫婦にとって南京に戻ってから最初の二年間は人生で最高の時間かもしれなかった。しかし、戦争の到来はこの静けさを破った。中国人を同胞と見るウェルソン氏は躊躇なく南京に留まり南京難民と一緒に乗り越えることを選んだ。1937年10月、平倉巷3号の金陵大学教授のロッシン・ブック(Pearl Sydenstricker Buck)の家(現在南京大学賽真珠記念館)に引越しした。
ウェルソン夫婦
ウェルソン医師は南京陥落後、城内にいる唯一の外科医になった。増え続ける外傷患者に対する仕事のストレスは想像がつく。1937年12月14日の一日だけで11人の手術をし、12月18日ウェルソン医師に面倒を見てもらう必要のある患者は150人、彼の治療が必要な患者は最も多い時は175人もいた。人手が足りないため、産婦人科医も兼ねて務めた。
ウェルソン医師が生存者の李秀英氏を治療する時の写真
手術を完成するために注射器で自分の体にホルモンを注入してまで重荷がかかっている身体を支えるウェルソン医師は常に心理的ストレスにも耐えていた。南京民衆を守るために、時々命の危険を冒さなければならない時もある。日記では「今日の昼は私は弾丸に当たるところだった……」
長期の精神的ストレスと過重労働のため、彼の健康は深刻な支出超過になり、残りの人生はほとんど病気の中で過ごした。
戦後の東京裁判でウェルソン医師は日本軍南京大虐殺の目撃者として率先に出廷して証言した。