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  初冬の「南京嘆きの壁」の前は、限りない哀愁が漂っている。

  12月3日、第10回南京大虐殺犠牲者国家追悼の日を迎え、「南京嘆きの壁」記念館の犠牲者名簿の壁の前で「南京大虐殺犠牲者家族祭告活動」が行われた。

  家祭·追想

  スタッフは祭花かごを担いで「嘆きの壁」に向かった。人々は黄白菊、松柏の枝で囲まれた「奠」の字に向かって、南京大虐殺犠牲者に3回お辞儀をした。

  南京大虐殺生存者の子孫で南京大虐殺歴史記憶伝承者の曹玉莉代表は、両親は生前の最大の願いは「生きている間に日本が南京大虐殺の歴史を認めることをこの目で見たい」ことで、自分が「歴史の証人」という使命を担っていることをずっと忘れずに、私たちにいつまでたっても虐殺された家族と同胞を忘れないで、南京大虐殺歴史の真相を代々伝えていくようにと言いつけていると発言した。

  中国共産党南京市委員会宣伝部副部長で記念館館長の周峰氏は、「南京大虐殺惨事は、本の中に書かれた歴史だけでなく、無数の個人や家族の被害史であり、さらに私たち中国人一人一人の歴史でもあります」と述べた。歴史の苦難は忘れてはならない。この壁にずらりと並んでいる遭難した同胞のネームリストは常に、南京には86年前の悲惨な歴史が忘れられないことを私たちに注意している。

  南京大虐殺生存者の艾義英氏、夏淑琴氏、劉民生氏は花を手に取り、家族に支えられて「南京嘆きの壁」の前に来て、再び亡くなった家族に花と哀悼の意を捧げた。

  「体が許す限り、私は必ず弔いに来ます!」94歳の夏淑琴氏はよろよろと歩き、南京大虐殺の間に残酷に殺害された7人の家族を弔い、家族への思いを涙ながらに訴えた。

  95歳の艾義英氏は息子の黄興華さんに付き添われて、殺害された家族たちに花を捧げた。「当時、艾家の青壮年男性はほとんど日本軍に虐殺され、残された女性だけが苦しい家計を維持しながら子供を育てたと母は私たちにしっかりと覚えてもらうためにずっとこの家族の経歴を話してきました。」と黄興華さんは語った。

  89歳の劉民生氏は「南京嘆きの壁」の前に立って思い出に浸った。「私たち家族は難民地区に避難していました。わたしはまだ小さくて、ずっと泣いていましたので、日本兵が私に向かって一刀突き刺しました。父を含む青壮年男性はすべて日本兵に連れ去られて、二度と戻ってこなかったのです。」

  張学萍、黄興華、葛鳳瑾、曹玉莉など20人の犠牲者遺族代表が順番に献花。

  記憶・伝承

  弔う人たちの中には、若い姿が増えている。生存者の子孫代表、学生代表などは南京大虐殺犠牲者名簿の壁の名前を一つ一つ「描新」(なぞって新しくする)して、哀悼の意を託した。

  生存者の子孫で南京大虐殺歴史記憶伝承者の夏媛さんは息子を連れて活動に参加した。「南京嘆きの壁」には犠牲になった家族の名前が刻まれており、それを目立つ色で「描新」することによって、人々の目を引き、人々の心にこの歴史を刻み込ませるのだと述べた。

  今日、記念館は南京暁荘学院第一実験小学校、江蘇第二師範学院美術学院、南京メディア学院から30人以上の青少年代表を招待して歴史記憶を伝承する活動に参加してもらった。

  江蘇第二師範学院美術学院の学生の丁旭豊さんによると、これらの犠牲者の名前を「描新」することはその名前をよりはっきりさせ、この歴史をより明らかにさせたと見ている。「嘆きの壁にびっしりと刻まれた名前は、かつての傷を忘れないようにと訴えているようです。これらの名前はこのまま末永く石碑に残してほしいし、この歴史も永遠に銘記されてほしいです」。

  「毛徳明、37歳、内橋湾48号で日本軍に射殺された;汪有忠、39歳、安徳門で日本軍に刺殺された;施学洪、40歳、西家大塘41号で日本軍に射殺された……」。活動の中で、南京メディア学院から来た大学生の晏子豪さんと南京暁荘学院第一実験小学校から来た小学生の劉子葉さんは哀悼の思いを込めて、遭難した同胞30人の名前、遭難年齢、遭難場所、遭難仕方を共に朗読し、罪もなく生きた命が侵華日軍に惨殺された30万人に深い追悼の意を表した。

  晏子豪さんは、「虐殺された30万人の同胞は一人一人銘記されなければならないのです。新時代の青年として、国を愛し、家を愛し、痛ましい歴史が二度と起こらないように努力しなければならないのです」と述べた。劉子葉さんは、「朗読を通じて、私はこの歴史に対してより直感的で深い認識を持つようになり、歴史を銘記し、平和を大切にする重要な意義を深く体得しました」と述べた。

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