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  85年前の1937年11月19日、南京安全区国際委員会が設立され、続いて22日、ドイツ人のジョン・ラベー氏が国際委員会の主席に選出された。そして、彼をはじめとする国際委員会は南京城内北西部の約3.86平方キロの区域を南京安全区の範囲と定め、25箇所の難民収容所を設けた。南京大虐殺期間中、ここでは25万人以上の難民が保護された。

  ジョン・ラベー氏の中国難民救済・保護した義挙に感謝するために、1948年金陵大学(現在の南京大学)の陳裕光学長、南京市長の沈怡氏など社会的著名人及び市民代表の59人が『共表欽忱』連名題冊をラベー氏に贈った。2005年それは国家一級の文化財に選ばれることになった。

  危難の時、彼は南京に大愛を捧げた

  1882年11月23日ドイツのハンブルクで生まれたジョン・ラベー氏は、1931年11月シーメンス南京支社に就職した。その後、彼は南京という都市の運命と密接に絡み合うことになった。

  1932年、ラベー氏は金陵大学の近くにある南京小桃園5号(現在の広州路小粉橋1号)青煉瓦で灰瓦の2階建てのビルに引っ越した。

  1937年7月7日盧溝橋事件が勃発し、日本は全面的に中国侵略戦争を引き起こした。8月15日戦争の硝煙が南京に波及し、日本軍機が南京を初の大規模な爆撃をした。

  この時妻のドラ氏と北戴河で休暇を過ごしていたラベー氏はこのことの深刻さに気づき、妻を置いて一人で南京に戻った。南京事務室の机の上には中国駐在ドイツ大使館から南京に残っている自国民に一刻も早く撤退するよう促す手紙が置いてある。慎重に考えた末、ラベー氏は危険を冒して留まることにした。

  9月19日と20日、4回も日本軍機の空襲を経験したラベー氏は自宅の庭に防空壕を掘ってもらい、ドイツ人の住宅であることを日本軍機のパイロットに注意を引けるように庭に巨大なドイツ国旗を敷いていた。

  日本軍機の空襲の中ヘルメットを被って事務室で仕事しているラベー氏

  1937年11月12日上海が失陥した。日本華中方面の軍隊は司令官、陸軍大将の松井石根の指揮の下、南京の方へ迅速に進撃してきた。

  11月19日ラベー氏は西方人士が南京で国際委員会を設立したのを知り、スマイスの要請を受けてこの委員会に加わった。

  22日午後、国際委員会は会議を開き、委員会が起草した安全区建設に関する提案を検討した。今回の会議では、国際委員会の今後の活動を容易にするために、日本の同盟国のドイツ国の人であるラベー氏は国際委員会の主席に選出されたのである。

  1937年12月2日、南京安全区国際委員会は本部を寧海路5号に移した。その廊下の階段でラベー氏は委員会の一部委員と記念写真を撮影した。

  南京国際安全委員会主席ジョン・ラベー(真中)と同僚が寧海路5号での記念写真

  1937年12月13日、南京が失陥し人類文明史上の空前の大惨事が始まった。南京大虐殺期間中、ラベー氏が指導した南京安全区は合わせて25万人以上の中国難民の命を救い、ラベー氏は小桃園5号の自宅で600人以上の難民を保護した。南京で日本軍の屠城暴行を目撃したラベー氏は自分の見たこと、聞いたことを日記で記録した。『ラベー日記』は日本軍による焼殺淫掠暴行と外国人による難民救助の困難さを詳細に記録し、大量の写真、書簡、メモ及び文書のコピーを守って、世界に非常に貴重な南京大虐殺の最初の資料を残した。

  1996年12月ラベー氏の孫娘のヴォルスラ・ラインハルト女史がアメリカニューヨークで59年近くも埋もれた南京大虐殺を記録した合計8巻2460頁がある『ラベー日記』を公表した

 帰国後南京での日本軍の暴行をあちこちで暴露

  シーメンス社の幾度もの要求と警告で、1938年2月中旬ラベー氏は南京を離れざるを得なくなり、2月23日下関埠頭で英国ミツバチ号砲艦に乗船し、2カ月近くを転々とした後、ドイツのベルリンに到着した。

  5月中、ラベー氏はドイツで相次いで日本軍の南京での暴行や南京難民の状況に関する報告を多く行い、米国のジョン・マギー牧師が南京でこっそりと撮影した日本軍の暴行記録映画を上映した。

  ラベー氏は、ドイツ元首がドイツと日本の同盟国関係を通じて、南京の恐怖状況を終息させるために日本政府に圧力をかけることを望んでいた。1938年6月8日南京での日本軍の暴行を報告書にしてヒトラー元首に報告したが、結局ラベー氏はドイツの秘密警察ゲシュタポにその6冊の日記と一緒に連れられて行った。彼はこの時になって初めてドイツ政府の親日政策がわかった。

  南京市民がラベー氏の困窮を援助

  シーメンス社の普通「通訳」を務めたラベー氏は下層社員として、シーメンス社のベルリンにある1LDKの普通のアパートを借りて住み、その後ベルリンのヴィルマースドルフにある家に引っ越した。

  1943年、家が爆破されたラベー一家はやむを得ず婿の家に引っ越し、その一家と一緒に住むようになり、命の最後までここにいた。

  1945年、第二次世界大戦の欧州戦はナチス・ドイツの降伏に終わった。戦後、同盟国はドイツのファシズムを徹底的に清算し始めた。ラベー氏がナチ党に入党したのは、中国でドイツ語学校を開き、ドイツ政府の資金援助を求めるためだけだった。訴えを経て、1946年6月、シャロテンブルク占領区の非ナチ化委員会はラベーナチ分子の罪を取り消すことになった。

  戦後ラベー氏とそのご家族

  精神的ストレスはほぼ解消されたが、生活の重圧は依然としてラベー氏の肩に伸し掛っている。当時、その境遇は極めて困難で、毎日家族で採集した山菜だけでスープを作って子供たちに食べさせ、大人たちはわずかな乾パンで生きていた。ラベー氏が絶望して崩れそうになった時、遠い東方から一縷の希望を得たのだった。

  1948年の初め、ラベ一家が困窮している消息が南京に伝えられた。南京市民は次々と気前よく金を出し合って、積極的に寄付を行い、すぐにフラン1億元の義援金を集めた。この寄付金は時価で2000ドルに両替された。同年3月、南京市政府はこの寄付金でスイスで粉ミルク、ソーセージ、コーヒー、バター、ジャムなどの食品を購入し、4つの大きな包みに分けてラベー氏に送った。1948年6月から1949年4月まで、南京市民は毎月ラベー氏に食品を送っていた。同時に、中国政府は、もしラベー氏が中国に来て生活したいならば、彼に住宅と終身年金を提供すると表明した。

  1948年6月、ラベー氏は南京に感謝の手紙を送り、南京市民のこの善行は、生きていく勇気と自信を与えてくれてとても感謝していると手紙の中でこう述べた。

  同年、金陵大学の陳裕光学長、南京市長の沈怡氏など社会的著名人及び市民代表の59人が『共表欽忱』連名題冊をラベー氏に贈った。その本文の中に、帰国後のラベー氏がドイツナチス党の迫害を受け、生活が困窮しているのを知り、南京市民は「古い友情を感じ、倍切に心配した」ため、資金調達活動を開始し、調達したドル千元と一部の食品をラベー氏に送るとともに、記念にこの連名題冊を作成したとの内容が記録されている。

2014年8月,南京市資料館研究館员の夏蓓さんは記念館所蔵の110万卷の史料の中で、南京市民がラベー氏一家を援助した史料原本を5卷見つけ出し、その孫のトーマス・ラベーさんに見せている

  南京政府はラベー墓地の再整備に資金を援助

  1950年1月5日、ラベー氏は突然脳卒中になり、その夜68歳で亡くなった。

  ラベー氏が亡くなった後、その家族は彼をベルリン西郊外のウィリアム皇家記念教堂の墓園に埋葬した。ドイツでは墓地の使用期限に制限があるため、1997年1月、ラインハルト夫人は息子にラベーの墓石を引き取らせ、自宅のガレージに置いた。同時に、彼女はドイツ駐在の中国大使館と当館に連絡し、ラベー墓石を当館に寄贈したいと表明した。同年1月末、ドイツ駐在の中国大使館職員がラインハルト夫人の自宅からラベー墓石を引き取った。この情報を知った中国国際航空は無料でラベー墓石を中国に送り返した。ラベー墓石はこうして記念館内に安置されることになった。

1997年ラベー氏のご親属がその墓石を記念館に寄贈

  この年、記念館は「ジョン・ラベー文献資料展」を開催し、わざわざラインハルト夫人を南京まで開幕式に招待した。夫人は上記の『共表欽忱』連名題冊を持ってきて、展覧会の開幕式で記念館に寄贈した。2005年6月この連名題冊は国家一級文化財に選ばれた。

1997年ラベー氏の孫娘のラインハルト夫人が記念館に『共表欽忱』連名題冊を寄贈

  その後、南京市政府は出資してラベー墓地を再整備し、40年間の墓地費用を一括で支払った。2013年12月、ラベー記念墓地の建設が完了した。

  感謝の旅、オリジナルオペラ『ラベー日記』のヨーロッパ巡演

ベルリン現地時間の2019年7月3日から、江蘇大劇場のオリジナルオペラ『ラベー日記』がドイツのベルリンやラベーの故郷ハンブルクなどで続々と上演され、南京市民の感謝の旅が始まった。

同時期、ラベー氏のひ孫クリス・ラインハルトと養女アンジェリーナ・ラインハルトら国際友人が南京を訪れ、第1回の南京紫金草国際平和キャンプに参加した。

クリス・ラインハルト(左)と養女アンジェリーナ・ラインハルト(右)

  新型コロナ禍の間、南京市民はラベー氏の子孫を支援

  2020年3月、ヨーロッパで新型コロナウイルスの感染が広がった中、ラベー氏の孫

  トーマス・ラベーはドイツ駐在の中国大使館に病院に抗疫病薬が必要だと言って、助けを求めた。ドイツのハイデルベルク大学付属病院の医師を務めるトーマス・ラベーは新型コロナウイルスが流行している間、ずっと患者を守っていた。

トーマス・ラベー

  この助けを求める情報を知った南京の方では記念館と製薬会社とは緊急に動き出し、すぐに620本の指定薬品、200着の防護服、30000枚のマスクなどが調達した。

  北京時間4月20日20時、トーマス・ラベーは山海を越えて南京市民の友情と思いやりを乗せた物資を受け取った。

トーマス・ラベー夫婦が中国南京からの抗疫病物資寄贈を受ける

  南京と南京市民を深く愛する祖父は生涯最も崇高な使命が南京という都市と密接につながっている、私たち一家はぜひ中国と中国人民へのこのような誠実な感情を伝えていきたいとトーマス・ラベーは感動して示した。

  トーマス・ラベーによると、自分の父親は北京で生まれ、流暢な中国語を話すことができるそうだ。自分は中国語は話せないが、医学科と近代史研究の2つの分野で中国の同僚たちと密接な関係を保ってきたそうだ。「私の子供たちも中国との友情を大切にしており、中国への愛情は家族の中で代々受け継がれると信じています。コルナ禍がひどく広がっているこの特別な時に、中国からの贈り物をいただいて、中国人民が友人に手を差し伸べるのを忘れることはないと改めて深く認識させてくれました。私は中国政府と人民、南京市人民政府、中国大使館に誠に感謝の意を表します」。

  ジョン・ラベーさんよ、今の南京はプラタナスの黄金色の季節です。あなたの旧居は珠江路の地下鉄駅の雑踏と広州路の車の流れの中にあるが、とても静かです。85年前に砲火の音と泣き声に付き纏われたあなたは、このような静けさが好きだったのではないでしょうか。人々はいつも花を手にしてあなたを偲びに来ていますが、あなたは「南京大虐殺中の生きた菩薩」で、「中国のシンドラー」で、私たちは永遠にあなたを懐かしんでいます。

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