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  11月25日、第九回南京大虐殺犠牲者国家公祭日が近づき、「2022年南京大虐殺犠牲者家庭祭告活動」は「南京大虐殺犠牲者名簿の壁」の前で行われた。南京大虐殺生存者の艾義英氏、馬庭宝氏、阮定東氏は家族に支えられて献花し、しわだらけの手が震えながら家族の名前を指し、85年ぶりの死の痛みを訴えた。

  活動中、侵華日本軍南京大虐殺犠牲同胞記念館のスタッフと南京大虐殺犠牲者遺族代表の余恵明氏とが一同に花かごの挽聯を整えた。全員が菊の花を手に持って南京大虐殺の犠牲者に3回お辞儀をした。

  活動が終わった後、艾義英氏、馬庭宝氏、阮定東氏は「南京大虐殺犠牲者名簿の壁」に亡くなった家族の名前を見つけ、花を捧げて哀悼の意を表した。阮定東氏は毎年記念館を訪れ、自分を守るために侵華日本軍に惨殺された祖父を祭っている。「生存者は少なくなっていますが、歴史真実の伝承と語りは永遠に止まりません」と話した。

  痛み・忘れない

  時間は85年経ち、当時の子供は今では白髪の老人になった。彼らは昔のことを思い出すたびに、心を痛めて涙を流したが、何度も何度も語り続けることにしている。

  生存者の艾義英氏:6人の肉親が日本軍に殺害「艾家未亡人」になった

  南京大虐殺期間中、艾義英氏の父親の艾仁銀、2人の叔父の艾仁炳と艾仁林、2人のいとこの艾義生と艾義栄、そして親戚の叔父親子は日本軍に捕まった。その後、この7人の家族のうち、いとこの艾義栄だけが最後に救助されたが、他の6人は日本軍に殺害され「艾家未亡人」だけを残した。艾義英氏によると、その時、苦労して子供を養う女性たちは「艾家未亡人」と呼ばれて、胸が張り裂けんばかりであったという。

  今では94歳で自由に行動できるし頭もはっきりしている艾義英氏は白髪だらけで花柄のスカーフを巻いて元気そうに見える。85年前家族の南京大虐殺での不幸な境遇を回想すると、彼女は目に涙を浮かべて話した。「昔より今は暮らしが楽で満足しています。今国は大きく変わってあちこちにビルや大通りがあります。4人の息子の家にはみんな乗用車を持っており、私も毎月15日に年金をもらっています」。艾義英は、「日本政府に謝罪してほしい」、日本政府に南京大虐殺の罪を認めてほしいと願っている。子孫については、「この歴史を覚えて、私たちの国をより強く建設しなければならない」と言いつけている。

  生存者の馬庭宝氏:「私の父、二番目の叔父、他の叔父はすべて集団虐殺された」

  85年が過ぎたが振り返ると馬庭宝氏は依然として激しい痛みを感じている。「父の馬玉泉、二番目の叔父の楊守林、叔父の温志学、何人かの叔父と多くの青壮年村人が日本軍に捕らえられて下関江のほとりで集団虐殺されましたが、私はまだ幼いので日本軍に捕らえられなく難を免れました」。

  今日、馬庭宝氏は2人の娘の馬明虹さんと馬明蘭さんの付き添いで記念館に来て家族祭りに参加し、生存者の集中取材を受けた。2人の娘と1人の息子に恵まれ、「私は今は四世同堂していますし、子供たちもみんな親孝行で、重慶、アモイ、大連、北京に旅行に連れて行ってくれました」と嬉しそうに話した。85年過ぎた今の願いは、子供たちが南京大虐殺の歴史を覚え、せっかくの平和を大切にしてほしいことだという。世界に戦争が起こらないことを望んでいる。次女の馬明蘭さんは編集者に、父は年を取ったので、次は自分は子孫として父のバトンを受け取り、この歴史の記憶を語り続けたいと話した。

  生存者の阮定東氏「祖父が命をかけて私を守ってくれた」

  阮定東氏は編集者の取材を受けた時次のようなことを話してくれた。1937年に南京大虐殺が発生した時阮定東氏はまだ赤ん坊だった。祖父は彼を守るために日本兵に刺されて重傷を負いその後不幸にも亡くなった。子供の頃、両親からこの話をよく聞かせてくれたので、ずっと心に残っていた。孫の阮傑さんが小学校の時書いた「私の祖父」という作文は自分の祖父のことを思い出させた。これは心の中の永遠の痛みで、必ず記念館に来て祖父の被害経歴を語らなければならないと話した。

  「2013年の清明節の前に、祖父阮家田の名前が犠牲者名簿の壁に刻まれました。その年、私は家族4代22人を連れて清明節追悼式に参加して、祖父に花を捧げ、私たちの祖国が強くなったということを伝えました。日本政府はまだ南京大虐殺の歴史を認めていませんが、私は必ずこの歴史を子孫に伝えていかなければなりません」。その孫の阮傑さんは大学を卒業した時、祖父の願いに従って、記念館にボランティアに来て、観客に家の先代の話をしている。

  記憶・伝承

  南京大虐殺生存者の子孫として、夏天行さん、常小梅さん、李真銘さんも今日記念館を訪れ、ファミリー記憶の伝承について語った。

  夏天行さん:英語を独学、南京大虐殺の英文資料で勉強

  南京大虐殺生存者の王素明氏は今年3月23日に逝去したが、その婿の夏天行さんが記念館に初の「南京大虐殺歴史記憶伝承者」として訪れ、義母の経歴を語った。南京大虐殺期間中、王素明氏の父親は学校の校長として、教師と学生を守るために日本軍に惨殺された。「義母は生前、‘侵華日本軍の凶悪な犯罪を決して忘れてはならないよ!’とよく言ってくれた」

  この歴史をうまく語るために、夏天行さんは、わざわざ南京大虐殺の英語資料を購入して独学で習った。今日の活動現場では、彼はカメラに向かって南京大虐殺の歴史を流暢な英語で語った。「外国人がほとんど南京大虐殺を知らないことに気づいたのです。第二次世界大戦しか知らないようです。私が紹介するたびに、とても驚かされるようです」と夏天行さんは言った。「義母は他界したが、南京大虐殺の歴史はファミリー記憶として代々伝えていくだろう。娘は今海外で生活していますが、今後、私たちも海外に赴き、生存者の家族として、外国の友人にこの歴史を語り、南京大虐殺の真相をより多くの人に知ってもらいます」。

  常小梅さん:父の経歴を本にして、父の老後を幸せに

  南京大虐殺生存者の常志強氏は今日来館できなかったので、その代わりに娘の常小梅さんが現場に来て、ファミリー伝承の話を語った。彼女は「南京大虐殺は父を9歳で孤児にさせました。この苦しい記憶はずっと父の一生を伴っています。子供の頃、私たちはこの歴史の話を持ち出す勇気がなかったのです。ちょっと口にするだけでも父は何日も食事をしないで、一日中顔を曇らせていたからです。」と話した。1997年、日本の右翼が南京大虐殺の歴史を公然と否定するのを知った常志強氏は一晩中眠れず自らの体験を書いて記念館に送った。「それ以来、心を開いた父は積極的に歴史を語りはじめ、いろいろな撮影や記念館の活動にも出るようになったし、日本に行って証言集会にも参加したのです」。

  現在常志強氏は94歳の高齢になった。今年初の「南京大虐殺歴史記憶伝承者」の一人である常小梅さんは、ここ数年父親に付き添ってさまざまな証言活動に参加している。また、『南京大虐殺生存者常志強の生活史』を書きつづり、父親の普通だが平凡ではない生涯を記録した。「幼い頃は不幸でしたから、父に幸せな老後生活を送ってもらいたいです」と常小梅さんは言った。父は老いたが、このファミリー歴史記憶を、自分は守り続けるという。

  李真銘さん:ボランティア説明員を務め、後代を激励

  李真銘さんは南京大虐殺生存者の故李高山氏の息子で、同じく今年初の「南京大虐殺歴史記憶伝承者」の一人としてインタビューを受けた。李高山氏が亡くなった後、李真銘さんは父から歴史伝承者の「バトン」を受け取り、本館でボランティア説明員を務め、観客に父の経歴を語って、歴史を守り平和を呼びかけている。

  今月、李真銘さんは幼稚園の先生たちにファミリー歴史を語る予定である。「これはとても意味のあることです。10人に話し聞かせて、10人はまた100人に話すかもしれない」。生存者が少なくなるにつれて、肩の荷が重くなったのを感じている李真銘さんは「生存者の経歴は私たち子孫が最もよく知っています。私ももう若くありません。人生の長い川の中で私には後どれぐらいの時間があるのかは分かりませんが、今のうちにたくさん語ります。憎しみをかき立てるためではなく、子孫を奮い立たせるためです」と話している。

  これまで、南京侵華日本軍被害者援助協会に登録されている南京大虐殺生存者はわずか55名になっており、その平均年齢も92歳を超えている。苦難の記憶は85年の歳月を経たが、この「民族の痛み」を乗せた記憶も次第に伝承者の手に受け継がれつつ、「歴史を銘記、平和を大切に」のバトンを受け取られ歴史とともに代々に伝えられていくだろう。

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