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  敵の封鎖線を通り抜け砲火の襲撃を避けて戦火の中から来た、抗日戦争勝利後国内で真っ先に南京大虐殺を報道した記者の一人であり、真っ先に南京大虐殺生存者の李秀英氏を取材した、抗日戦争を背景にして長編大作の『戦争と人』三部作を書いた……

  彼の名前は王火、本名は王洪溥、江蘇南通籍の作家で、今では百歳の高齢である。最近、編集者はいろいろと聞いて、やっと王火氏の連絡先を手に入れた。彼は電話で昔のことを思い出し、編集者に歴史を伝えるために新たな貢献をするよう励ましてくれた。

  今日、「南京大虐殺が私との関わり」シリーズの人物インタビュー第5話「王火:真っ先に南京大虐殺を報道し、公平と正義のために叫ぶ」が放送された。

  戦争は彼の生い立ちを貫いた

  9月30日午後、編集者は初めて王火氏の四川の家に電話をかけた。記念館から電話があったことを知った王火氏はとても喜んだ。昔を思い出して、百歳の王火氏は「私は抗日戦争の勝利後、国内で真っ先に南京大虐殺を報道した記者の一人です。歴史を書くと、歴史に申し訳が立つと思います」と言った。彼は声が大きく、頭の回転が速く、語調に誇りが満ちていた。

  顔を合わせなかったとしても、コミュニケーションを通じて、そのイメージが目の前に生き生きと現れる:鶴髪童顔で話に花を咲かせ、すでに百歳の高齢だが、元気いっぱいで幸せに暮らしている。しかしこんな王火氏でもその生い立ちは曾て戦争が貫いていた。

  「私は1924年に上海で生まれ、6歳の時に両親に従って南京に来て、そこで何年も生活しました。1937年に私は中学1年生で、抗日戦争が全面的に勃発した後、戦火を避けるために、私は家族に連れられて安徽省、湖北省を転々として、最後に香港に来ました。」電話の中で、王火氏は若い頃の経歴を思い出して詳しく話してくれた。

  1942年、胸に抗日情熱をいっぱい抱いた18歳の王火氏は封鎖を突破して、単身で西南へ学問を求めに行った。彼はまず汽車で南京、合肥に行ったが、その後戦火が広がったため、山に登って峠を越えたり船で川を渡ったりして、河南省、陝西省を経てやっと重慶江津に辿り着いた。

  その後、全国7位の優秀な成績で復旦大学メディア学科に受かった。復旦では、道義的責任感を感じた王火氏は良師蕭乾先生のように戦地記者になって、戦火の中で文章を武器にする勇士として歴史を書くことを望んでいた。

  1940年代に彼は「王火」、「王洪溥」、「王公亮」など多くのペンネームで新聞に報道を発表していた。王火という名前も彼自身がつけたもので、ゴーリキーの「火で旧世界を焼き払い、新世界を建てる」という言葉に由来しているという。「‘火’の字は簡単で、赤い色だし、それは古い世界を焼くことができますから、王火と名付けました。このペンネームがいいと思います」。

  裁判を傍聴、国内初の南京大虐殺報道

  1946年、まだ復旦大学メディア学部の3年生だった22歳の王火氏は当時すでに特派員として重慶の『時事新報』や上海の『現実』などの新聞誌に報道を書いていた。その年の2月に、復旦大学メディア学部の王研石教授から上海、南京特派員の名義で南京に行って日本戦犯の裁判過程を取材する仕事を与えられた。

  非常に熱血で公平正義のために叫びたい一心で働いた王火氏にチャンスが来て、日本の侵略者に対する恨みと自分のジャーナリストの夢を抱いて、彼はすぐに南京に駆けつけた。

  「南京に着くと、私は驚愕してやまなかったのです。これはイメージしていた南京とは全く違います。私の記憶では、南京の通りはとても賑やかでしたが、1946年の南京の街にはほとんど人がいなく、衰廃の光景が広がり、戦争は南京に取り返しのつかないダメージを与えました」と王火氏は回想して話した。

  南京の寒い冬に、王火氏は南京大虐殺を研究しながら南京大虐殺の生存者を取材し、集団虐殺地の発掘過程を見ていた。南京戦犯軍事法廷が谷寿夫を裁判した時、王火氏は法廷で傍聴した。その日、多くの南京大虐殺被害者が出廷して証言した。「顔いっぱいに刃物傷を負った若い女性が、マフラーで自分の顔を半分隠して、夫に付き添われて法廷に入り、南京で侵華日本軍が犯した罪を証言したのです。彼女が李秀英だったのです。」と王火氏は言った。

  「当時は誰もが勇気を持って立ち上がったわけではなかったのです。李秀英は自発的に出廷して証言することができて、私の注意を引き起こしました。出廷後、私は積極的に李秀英と彼女を訪れて取材する約束をしました」。その後、王火氏は上海の「大公報」と重慶の「時事新報」で、「王公亮」というペンネームで「南京大虐殺主犯谷寿夫被審詳記」、「侮辱と被害―南京大虐殺期間中死を逃れた三人の生存者を記す」などの長い記事を発表した。

王火氏が報道した南京大虐殺原稿の切り抜き

  李秀英の南京大虐殺期間中の不幸な境遇を報道した『侮辱と被害―南京大虐殺期間中死を逃れた三人の生存者を記す』という記事が発表されると、大騒ぎになった。この記事は王火氏が公平正義のために叫びたいというジャーナリストとしての夢を実現させたのであるという。

  1949年、王火氏は米国コロンビア大学メディア学院に進学するための全額奨学金を獲得したが、自らこの機会を放棄したそうだ。「当時、新中国は間もなく成立できるので、私は皆さんと一緒にこの目で見て、一緒に新中国を建設したいと思っていたからです。私はこのような機会を逃したくなかったのです」。

  1949年10月1日、中華人民共和国が成立するその日、上海市労働組合総会3階の文教部事務室で実況放送を聴いていた王火氏は、毛主席が「中華人民共和国が成立した!」と宣言した声を聞いた時、戦争と同胞の苦難を目撃した彼の胸のときめきは言葉では表現できなかったという。

  「毎年南京大虐殺犠牲者国家公祭の日になると、私は南京大虐殺の生存者を思い出し、過去に南京で取材した経験を思い出します。私は永遠にこの歴史を忘れられません」と王火氏は言った。

  生存者をモデルに、死んでも屈しない女性像を作る

  数年ぶりに李秀英という人物に言及した王火氏は、「彼女はすごい女性英雄です。私が彼女を取材した最初の記者だったのです。取材した時、彼女は『夜半の歌声』のあの顔のようだった……。このような女性は死んでも侮辱されない。南京の人々は抵抗しないと言われていましたが、私が取材した彼らの話では、南京人は決して臆病ものではないことが分かったのです」と、依然として敬服の口調で話した。

日本兵に反抗する女性の李秀英氏。鼓楼病院に搬送され手当を受ける時の写真

(出処:『ラベー日記』により)

  その後、王火氏は抗日戦争三部作『戦争と人』という作品を創作し、李秀英をモデルとした南京大虐殺の中で死んでも屈しない荘兄嫁という女性像を描いた。「私は南京大虐殺における荘兄嫁のスリリングな境遇を本の中で描いていますが、基本的には李秀英のインタビューを通じて得た印象で書いたのです。」と王火氏は言った。

  李秀英もその取材の経験を忘れていなかったという。1990年、王火氏は南京に来て、「当時私は、李秀英もある若い記者が自分を取材し、文章に書いたことをずっと覚えていることを記念館のスタッフから聞きました。私は彼女を見舞いに行き、昔のことを話し合おうと思いましたが、急いで上海の病院に治療を受けに行くところだったため、行けなかったのです。これは今でも残念に思います」。

  李秀英は2004年12月4日に病気で亡くなり、王火氏の無念が永久となるという。

  ペンを武器に、「戦争」が作品の母題

  11月11日午前、編集者は再び王火氏とその娘さんの王凌さんと連絡を取れた。王凌さんは「父は抗日戦争勝利後に南京で取材した経験をよく口にしていました。この経験は父の一生に影響を与えたのです」と語った。確かに、これらの平凡でない取材経験は、その歴史を記録する考えをかき立て、彼の心の中に抗日戦争文学を書く種を植えつけてくれたという。それから数十年の歳月の中で、王火氏は筆を武器とし「戦争」がその作品の母題となった。

  王火氏によると、1960年代初め、彼は余暇を利用して『戦争と人』の前身である『二度と戻らない時代』を創作したが、不幸にもすべての原稿は燃えてしまった。70年代末、王火氏は人民文学出版社からこの小説を書き直すようにという励ましの手紙を受け取った。慎重に考えた上この小説に対する捨てがたい感情も加わり、彼はこの長編小説を作り直すことにしたという。

  しかし、この本を書き上げるのも順調ではなかった。執筆中、致命的な事故がこの大作を台無しにするところだった。1985年王火氏は深い溝に落ちた女の子を救うために、頭を鋼の管にぶつけ、左目の網膜にけがをした。治療、休養を通じて頭蓋内出血と脳振動は治ったが、後に編集作業と作文の過労により左目の傷跡が破裂して網膜が脱落し、ついに失明に至った。

  「私の片目は失明しましたが、私が見ることができる限りの光と温もりを、文字を通じて多くの人に与えます」と、その心の中の文学創作の火種が消えず、左目が失明する中で、相次いで『戦争と人』の第2部と第3部を完成させた。本の中で生き生きとした典型的な人物像を作って、抗日戦争の広大で悲壮な歴史画面を示した。この史詩的な作品は1997年に第4回茅盾文学賞を全票で受賞した。

  王火氏は「本当の経験がなければ、この作品は書けなかったに違いないと思います」と言った。確かに、その過去の見聞や経験はすべて小説創作の素材になった。彼は革命の歳月を経歴した体験と、自分で見聞きし経験した人と事を文字にして戦火硝煙の中で不撓不屈の中国人英雄の光を謳歌する作品に綴った。

  1995年、中国抗日戦争及び世界反ファシズム戦争の勝利50周年を記念する際、中国作家協会は王火氏を含む337人の抗日戦争に参加した年寄り作家に記念銘板を授与した。その上に「筆を以て武器に抗戦に身を投じ」という大きな文字が刻まれている。

  「私は愛国愛党の人です。中国は強くなって侵略を受けないようにしなければなりません。私は一生に数十冊の本を書きましたが、ずっと反侵略のために努力しています」と王火氏が言った。

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