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  86年前、危険状態の南京に留まった一部の外国人人士は南京安全区国際委員会を成立し、南京安全区を設けて、25万人の難民を保護した。同時に、1500人以上の中国同胞も直接その委員会の仕事に加わった。

  1938年2月21日、ジョン・ラベー氏が告別演説で「委員会の各部門の実際の仕事は全て中国人がやっています。彼らが我々よりもっと大きな危険を冒して働いていることを正直に認めなければなりません」と示した。

  記念館メディアセンターは5月から「中国人同胞が助け合う」という人物シリーズ特集を発表して当時屈辱を我慢し難民と助け合う中国側職員のことを語る。今日その第二話『姜正雲:金大附属中学校80人のボランティアを率いて15000以上の同胞を救助』を放送するので、どうぞご覧下さい。

  南京では金陵中学校を知らない人はいなく、南京の生徒たちにとって夢の著名高校である。86年前、日本軍が南京大虐殺を引き起こした期間中、ここは曾て金陵大学附属中学校難民収容所で、教師の姜正雲氏が所長を務めた。1937年12月から1938年5月までの間、姜正雲所長は80人のボランティアを率いて、相次いで15000人以上の難民を救助した。先日、編集者は金陵中学校に入り、姜正雲氏の後代を訪ね、その英雄的な事跡を再現することにした。

  86年前、80人のボランティアを率いて15000人以上の難民を救助

  金陵中学校の張銘先生は1985年に南京大学歴史学科を卒業した後、金陵中学校に配属され、歴史教育の仕事に携わった。この仕事をして30年以来、教学の合間にずっと校史や同窓会のことに関心を寄せ、『鐘楼記憶――文化、キャンパス、人物』、『金陵中学校先生と生徒の抗戦史話』などの著書を出した。張先生は編集者たちを学校の校史展覧館に案内してくれた。

張銘先生は記念館の編集者に校史を紹介

  紹介によると、金陵中学校の前身はアメリカの美以美会(The Methodist Episcopal Church)が創立した匯文書院だったそうだ。1910年に匯文書院と宏育書院とが合併して金陵中学校になった。その中学部博学館は金陵大学附属中学校と改名し、略称は金大附中、金陵中学だという。

  1937年南京失陥前、金大附中の張坊校長は一部の教師を率いて四川省万県砂河子鎮に西遷して引き続き学校の運営を続け、寮監兼英語教師としての姜正雲氏は学校に留まりその財産を保護することにした。

  1937年11月下旬、侵華日本軍が次々に南京に迫ってきた。南京に留まった外国籍人士が「南京安全区国際委員会」を成立し、ジョン・ラベーをその主席に選出した。直ちに、国際委員会は3.86平方キロ・メートルの安全区域内に25個の難民収容所を組織し、更に9つの区を設置して、最も危険な時に適時に撤退できなかった難民に戦火を避けるところを与えるためであった。

灰色の部分は当時指定された南京安全区域

  美以美会の王明徳牧師の紹介で、姜正雲氏は南京安全区国際委員会の救助仕事に加わり、金陵大学附属中学校難民収容所所長を務め、安全区第二区区長を兼任した。

  姜正雲氏は有力な難民収容所の所長だった。金陵大学附属中学校校史館にある抗日戦争時代の金大附中の難民救助のことを紹介したパネルに、「日本軍が南京大虐殺を引き起こした期間中に金陵中学校難民収容所所長の姜正雲氏の指導の下で学校に留まり財産を保護する80人のボランティアが相次いで約15000人以上の難民を助けた」という文字がはっきり記載されている。

姜正雲、1890年2月生まれ、1924年金陵大学を卒業、1925年岳州美立長老会牧師、1930年漢口光華中学教主任、1935年金陵中学寮監兼英文教師を任ず

  金陵中学校のキャンパスを歩きながら、張銘先生が目の前の建物を指して説明してくれた。「ここは小礼堂で、隣に東課楼がありました。その上の閣楼にも難民を隠したのです。当時全ての教室に難民が配置されました。学生寮は当時口子楼で、その北側は食堂で、上の口の形をする二層が学生寮でした。難民を救助した時、後ろに平屋が建てられ、そこはお粥を作り、そして施す場所になりました。すべての寮、実験室、体育館を含めて、当時多くの難民が配置されました。配置の仕方はとても整然として、秩序がよかったのです」。

1937年,金陵大学附属中学校の様子,左から西課楼、口子楼、鐘楼、小礼堂、東課楼

  40人の女性を鐘楼の地下室に匿った

  多くの女性を収容した金大附中難民収容所は不幸にも日本軍の目標になった。日本軍はよく塀を超えてここに入り、残酷に女性を蹂躙した。

  姜正雲氏は心が痛くてどうしようもなく、涙を流しながら、1937年12月17日に南京安全区国際委員会事務局長のジョージ·フイッキーに手紙を送った。「今晩、日本兵はさらに少女を捜すために私たちの寮に侵入して、あちこちに泣き声が満ちていて、私にはこれを止める方法はありません……もし多くの水兵(当時長江にある英米軍艦の水兵を指す)が船から降りてキャンパスの周りに配置されたら、私は感謝します……もし私たちにはあるべき速度が足りなければ、より多くの人が惨死することになります。私は怒りの涙を流しながら、この手紙を書いています」。

  ジョン・ラベーも1937年12月19日の日記の中にその日の午前金大附中に行って分かったことを記録している:「昨夜3人の女の子は引きずられて行き、そのうちの一人が入口のところで日本兵に輪姦された」。日本軍による強姦を避けるために、収容所にいる女性はみんな黒灰で顔を塗った。

  難民を守るために真面目に働いた姜正雲氏は日本軍に殴られたりした。このような困難な状況下で、彼はボランティアの厳師匠らを組織し、40人あまりの難民女性を自分のオフィスの鐘楼の地下室に匿い、ボランティアにこっそりとご飯と水を届けてもらった。

元金大附中の鐘楼,20世紀20年代に建て直された

  張先生は編集者を鐘楼の中に案内した。「これは南京の最初の洋楼で、南京のランドマークです。」と張先生が紹介している。鐘楼は今も学校の行政オフィスビルで、地下室は昔の構造のまま維持している。中は約200平方メートル、高さは1.7メートルで、五つの小さな仕切りに区切られている。地下室の壁にいくつか長方形の出気口が開けられ、中にいる人は通りかかる人の足取りが見られるが、外から中の状況を察知しにくい。ここには洗面所などなく、当時難民はここでただ最低限の生活を維持しただけだったという。

鐘楼地下室の出気口

  管理が上手で、難民収容所は整然としていた

  所長姜正雲氏の指導の下で、金大附中難民収容所の救助仕事は整然と管理された。史料の記載によると、収容所に医務室、救護隊、消防隊、検査組などがあり、キャンパスに売店と中心食堂があった。難民は40組に分けられ、安全のために、その出入りは登録が必要で、普段自ら収容所を離れることは禁止されていたとのことである。

  ジョン・ラベーは1938年1月4日の日記の中に金陵大学附属中学校難民収容所の様子を記録し、その中で一つの細部事項に言及した。米の配布では、収容所は毎日分配用の米を12袋受け取る。姜正雲所長はそのうちの2袋を金持ちの難民に売却し、毎日販売で得た21元の収入を収容所の必要な支出に使う。例えば、ロープや箒などを買ったり、日本兵を対応する時に使うタバコ、厨房用品を購入したりする。収入と支出はすべて詳細に計上する。他に、収容所に「一つ中心厨房があって、とてもきれいに片付けられている」、「私たちにはこんな感じがある、つまり収容所は管理がよくて、整然と秩序立っているということだ」とジョン・ラベーが書いた。

  金陵大学附属中学校難民収容所

  1938年1月3日は洛さん、王さん、ミルズさんとフォスターさんが検査

  組織:

  所長:姜正雲さん、80人の助手を率いる

  難民数:1.1万人(以前は1.5万人)

  この収容所にいるすべての難民は登録済み。登録後、一部の難民は収容所を離れたが、他のは自分の家が焼かれたのを確認した後また戻ってきた。収容所の中は女性と子供は男性より多い。

  難民は40組と分けられている。

  救護隊1つ、検査組一つと消防隊一つがある。

  病人のために医務所一つが設立され、中国人医師と看護師が受け持っている。ここに病人は何人かいる。8人の大人と3人の子供は死亡、赤十字が棺を提供して埋葬した。

  規定に服従する難民は現在収容所を離れるのは禁止されている。

  数人のアヘンを吸う人が収容所から追放された。

  一つの消費連合会が一つの販売店を経営して難民に便利を提供する。全ての貨物の販売価格は特別委員会に規定されている。

  米の分配:

  米の配布では、収容所は毎日分配用の米を12袋受け取る。姜正雲所長はそのうちの2袋を金持ちの難民に売却し、毎日販売で得た21元の収入を収容所の必要な支出に使う。例えば、ロープや箒などを買ったり、日本兵を対応する時に使うタバコ、厨房用品を購入したりする。収入と支出はすべて詳細に計上する。

  毎日、貧乏人や何も持っていない人に無料で10袋の米を配る。

  中心厨房が一つあって、とてもきれいに整頓されている。石炭はリッグスさんが供給する。1月3日から水道水の供給を再開した。

  コメント:私たちにはこんな感じがある、つまり収容所は管理がよくて、整然と秩序立っている。

  姜正雲氏の奥さんは生存者常志强兄弟の面倒を見たことがある

  南京大虐殺生存者の常志強氏は当時金大附中難民収容所に避難した。生前次のように口述した。「当時両親と弟が遭難した後、姉は12歳、私は9歳、姉は体に3刀刺されたが、まだ生きていました。近くに泣き声が聞こえていると思ったら、一人のちょっと太った女が泣きながらやってきました……こうして、子供連れで太った女、私、姉と一緒に乾河沿金大附中難民収容所に逃げてきました。表玄関は人でいっぱいです。ノックしてやっと開けてくれたので、みんな大騒ぎして入ってきました。この学校はすでに難民でいっぱいです。押されて玄関の中に入った時、太った女は私たち兄弟にはぐれてしまいました。ちょうどこの時一人の女性がやってきて、姉が怪我したのを見て、姉を背負って二階に上がりましたので、私もついて行きました。この女性は難民所の職員で、難民のために食事係を担当しているそうです。彼女はずっと私たちの面倒を見てくれました。後に、そのご主人は姜(金大附中難民収容所所長の姜正雲氏――編集者注)という苗字だと分かりました。」

  常志強氏が亡くなったため、編集者はそのそばに長く付き添った末娘の常小梅さんと連絡が取れた。父親からその話を聞いたことがあるらしく、「当時父とそのお姉さんは難民の人ごみに押されてやっと難民区の建物の中に入り、廊下の階段の下を落ち着く場所としました。後に姜という苗字のとても心の優しい夫婦に出会いました。父の不幸なことを知った後、兄弟二人を難民区の自分の住んでいるところに連れて行きました。」と常小梅さんは話していた。

  金大附中難民収容所を解散する布告を自筆で書いた

  記念館に所蔵されている歴史写真庫にある写真は、1938年2月、南京安全区25の難民収容所所長及び南京9区区長が第六回連合会議を開きジョン・ラベーの勤勉な仕事に陳謝する際に出席した人の署名表である。姜正雲氏の署名は方正で力強そうだ。

  金大附中難民収容所の救助仕事は1938年5月まで続いた。その年の5月4日、南京難民区国際救済委員会、金大附中難民収容所所長とすべての職員と一緒に金陵中学校で貴重な記念写真を残した(その当時一部のボランティアはすでに離れた)

AI技術によって修復した南京難民区国際救済委員会委員及び金陵大学附属中学難民収容所の職員との記念写真、前列右二は姜正雲。写真はイェール大学神学院図書館特藏庫に所蔵され,金大附中の同窓生はそこで発見し、修復して母校に提供した

  その年の5月15日に、姜正雲氏は自筆『金中収容所布告』第二十六号、国際救済委員会令を受けて、難民収容所の解散を決定したとの内容を書いた。

金陵大学附中難民収容所解散前の布告

  彼の正直で善良な品格は後世に受け継がれる

  姜正雲氏長孫の姜四華さん一家は現在南京馬群附近に住んでいる。2018年中秋節の休暇に、姜四華さん夫婦は娘、孫を連れて記念館に見学に来て、そして祖父の姜正雲氏を祭った。『南京大虐殺史実展』中国同胞守り合う区域の展示板の前で姜四華さんは編集者のインタビューを受けた時に、「祖父に会いたいですね。南京大虐殺期間中に民衆を守るために貢献したことに対して、祖父にとても感謝しています」と話した。

  編集者は姜四華さんの奥さんと約束した時間にそのお宅を訪れることになった。これを知った常志強氏の娘の常小梅さんもご一緒して、父親の恩人の子孫と面と向かって感謝を表したいと言い出した。

  姜四華さんは編集者に祖父が小さい頃苦しかったと話した。「6、7歳の時、母親に亡くなられ、父親が娶った継母も自分に悪いので、数年も経たないうちに祖父は家を出てアルバイトしながら勉強しました」。家の年長者から「英語が上手で後に牧師について南京に来た祖父は華僑路神学院で勉強し、英語の卒業証書をもらって英語の先生になりました」と聞いたそうだ。姜四華さんは祖母から聞いたことを思い出して、「当時家に6人の子供がいたので、祖母は岳陽の実家で5人の子供の面倒を見て、祖父は16歳の長男つまり私の父を連れて南京に来て、仕事が落ち着いた後、祖母と5人の子供を南京に迎えました」。

姜正雲氏の長孫姜四華、陳謙陵夫婦

  祖父は南京大虐殺期間中金大附中難民収容所で難民を救助した話はあまりしなかったと姜四華さんは追憶した。おばは少し知っているから教えてもらったことがあるという。「1937年、おばは十何歳くらいで、祖父はとても忙しかったそうです。日本兵はいつも嫌がらせに来るから、祖父と祖母は夜になったら足音を聞くと、すぐに女の学生をロッカーに匿うのです。祖父は一度人を救ったため日本兵に殴られて負傷したということです」。

  「後に祖父は法廷で通訳をし、解放後、ある中学校で英語の先生をしていました」と姜四華夫婦が紹介してくれた。解放後、姜正雲氏は6人の子供の3人を軍隊に送り、「彼らは英語が上手で、特に四番目の叔父、祖父の末息子の姜一傑は曾て抗米援朝の戦場で英語の通訳を担当したことがあります」。

  祖父の姜正雲氏は1962年に病気で他界し、墓地は南京鯉魚山公墓にある。勤勉善良で誠実な祖父は正義感があり、苦労に耐えて人を助けるのがすきだというような良好な家風は後代に伝えたと姜四華さんが言った。

  話によると、姜正雲氏は6人の子供と16人の孫に恵まれ、そのうち教師をする人も何人かいるし、商売をする人もいるらしい。一大家族はみんな人当たりが親切、誠実で、義理があるとのことである。

  現場で姜四華夫婦の紹介を聞いた常小梅さんは感動し、「わざわざ感謝にまいりました!もし父親は当時おじいさんとおばあさんに守っていただけなかったら、その後どうなったのかわかりません。もしかしたら私も生まれなかったのかもしれません。」と言って、「2014年から父に付き添って色々な社会活動に参加して、はじめて父が南京大虐殺期間中に経歴したことを知ったのです。より多くの人にこの歴史を銘記してもらうために、私は父の経験したことを本に書いて、それは今中国語、日本語、英語の三つの語版で外文出版社に出版されています」。父親は他界したが、記憶伝承人として、そのリレーを受け継ぎ、この歴史を子孫に伝えていくつもりだと常小梅さんは言っている。

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