彼らは当時南京にいた(2)|ヴォートリン:子宝に恵まれなかったが 子供いっぱい
1912年米国から中国に来たミニ・ヴォートリン(中国の名前は華群)は長い間金陵女子文理学院(現在南京師範大学)に勤めた。南京大虐殺期間中、彼女はまるで雛を孵す老雌鶏が子鶏を庇うように、何度も両腕を広げて前に立ち上がり身の後ろの女性と児童を保護した。今日は母の日であり、ヴォートリンの忌日でもある。一生子宝に恵まれなかった彼女は亡くなる前に、「もし私には二つ目の命があったら、やはりそれを中国人に捧げます」という遺言を残した。今日、この偉大な女性を偲びましょう。
危うい時に南京を固守
1937年7月7日日本侵華戦争が全面的に勃発した時、中国青島で休暇中だったヴォートリンはすぐに南京に戻り、南京が空襲爆撃に遭った期間中、ずっと南京に留まっていた。
ヴォートリンは学校内に残って責任と使命を担い、「自分の子供たち」を守るべきだと思っていた。
「午後九時に米国大使館から、全ての男と女が撤退するようにという命令の手紙が届いた……自分は金陵女子文理学院に十八年もおり、隣同士と十四年も付き合った経験があるので、ある程度責任を負うことができるし、これも自分の使命だと思う。これは、危険の中で男は船を捨てて逃げるべきではない、女は自分の子供を捨ててはいけないことと同様だ。」
——『ヴォートリン日記』1937.8.27
「キャサリンと短く相談をした後、私たち二人は同僚と一緒にいることにすると大使館に示した。こんな時にこそ私たちは大きな役割を果たすことが出来るに違いないと思ったからだ。これは自ら危険を冒して留まることを選んだので何が起こっても政府や学院に責任があると感じさせたくないということをはっきりと表明した。」
——『ヴォートリン日記』1937.9.20
学校に戻った後、ヴォートリンはキャンパスを女性や子供を収容する難民所にする準備に取りかかった。南京失陥後、難民を続々受け入れるようになった金陵女子文理学院のキャンパには大量の女性と子供が押し寄せてきた。ヴォートリンは後で「将来破損され汚された壁に直面しなければならなくてもむしろ今は学院に来た女性と子供に人道的サービスを提供します。絶対にこれらの人たちにドアを閉めてはいけません。」と回顧して話した。
ヴォートリン女史(前列左四)と金陵女子文理学院難民収容所の一部のスタッフとの記念写真
立ち上がって女性と子供を保護
12月13日、日本軍が入城した後、中国と世界を驚かせる残酷な大虐殺を始めた。恐怖に包まれている間、大量の女性と子供が金陵女子文理学院に押し寄せてきた。こんな時にヴォートリンは立ち上がり、背の高い体でキャンパスで中国人女性を日本軍の被害から守り、南京の数万人の女性と子供たちのために大きなノアの箱舟を造ったのである。
金陵女子文理学院で避難している女性と子供たち
日本軍が入城した後、金陵女子文理学院に来て人を捕まえ女性を強姦し財物を略奪する日本兵が毎日のようにいる。彼らは学校の正門、側門から強引に侵入し、更に夜間に塀を超えてキャンパスに入り女性を探して強姦する人もいた。
ヴォートリンは一日中キャンパスをパトロールし、日本兵が女性を捜索・逮捕するのを防ぐために外国人男性に交代で夜警を担当してもらったから、多くの日本兵に怒られ、血まみれの銃剣を持って脅かされ、ビンタを張られた。
ヴォートリンは時々やむを得ず、無辜の女性が自分の前で連れ去られ、強姦され、殺されるのを見ているだけでどうすることもできなかった。
「中央楼の前でドアを押す二人の日本兵が私にドアを開けろと命令した。鍵がないと答えたら、一人の日本兵が‘ここに中国兵士がいる、日本の敵だ’と言った。一緒にいた李さんも私も‘兵士がいない’と言ったら、私たちは日本兵にビンタをひどく張られて、ドアを開けろと命令された……私はその光景を永遠に忘れられない:人々は道端に跪いて、マリさん、程夫人と私は立っていた。枯れた葉はさっと震え、風は低声で嗚咽し、捕まった女性たちは悲惨な叫び声を出した。」
——『ヴォートリン日記』1937.12.17
「朝早く恐ろしそうな顔をした女性、若い女の子と子供たちが潮のように押し寄せてきた。中に入れるしかないが、配置するところがない。露天の芝生で寝るほかはないと教えた……ここ数日以来、私は一日中キャンパスの中をこっちからあっちへ走り回り、大声で‘ここは米国の学校だ!’と叫んでいる。ほとんどの場合、これは日本人を去らせるのに十分だが、時々無視され凶暴に睨みつけられ、顔の前で銃剣を振り回されることもある。」
——『ヴォートリン日記』1937.12.18
「午前中、キャンパスのこちらからあちらまで走って続々と来る日本人を追い出した。南山へ3回、またキャンパスの裏へも行った。そして二人の日本兵が教職員棟の上に上がったというので、緊急にそこに呼ばれてきた。私はその建物の上の538号の部屋に来たら、日本兵は一人が門のところに立っていて、もう一人が女の子を強姦していた。私の出現と手に持っている日本大使館からの手紙を見て日本兵が慌てて逃げていった。自分の中では力があればあいつらをぶん殴ったのにと思った。」
——『ヴォートリン日記』1937.12.19
難民所では、多くの難民は家族と離散し、永別の苦しみがそこを包んでいた。ヴォートリンは彼らを慰め励ましたり、常に周囲の隣人と子供をパーティーに招いたりして、勝利の信念と生きていく勇気をつけた。
「南画室で、中央棟から選ばれて布教会に参加した約170人の女性に、王さんは歌を教え、ポーラ・唐さんは布教を行った……と同時に私たちはまた科学棟にいる9歳から14歳くらいの子供たちに布教会を行い、参加した子供たちは約150人だった。第一句の賛美詩の‘これは神様の世界’を勉強する時、子供たちは楽しそうだった。子供たちは薛さんの話した物語が大好きだった。これらの布教会のタイミングはとてもよかった。みんな慰められるのを望んだいたからだ。」
——『ヴォートリン日記』1938.1.19
「500人くらいの女性たちが大礼堂に集まり、受難の日のために祈祷した……4人の盲目の女の子が特別な歌を歌った。これは奇跡だ。彼女らはこの悲しみに悩まされている日々に生活の息吹をこんなに多くの人々にもたらすことができた。」
——『ヴォートリン日記』1938.4.15
母性の輝きを永遠に追想
長い間恐怖と大きなストレスの環境の中で働いたため、ヴォートリンは大きな代価を払った。1940年春彼女は精神的に崩壊したため、アメリカに戻って治療を受けた。1941年5月14日にこの世を去っていった。
ヴォートリンは子宝に恵まれなかったが、自分の一生を中国人民に捧げてくれた。
記念館史料陳列室に両腕を広げて後ろの恐ろしそうな中国人女性と子供を守ろうとする造形の彼女の銅像が聳え立っている。この銅像の上に当時南京安全区国際委員会主席、ドイツ人のジョン・ラーベが話した言葉が刻まれている:「ヴォートリンはまるで雛を孵す老雌鶏が子鶏を庇うように難民を守った!」
2002年7月20日、ヴォートリンの姪孫娘のシンディー・ヴォートリンさんとその娘さんが南京に来て「ヴォートリン日記」及び100件余りの貴重な文物史料を記念館に寄贈してくれた。ミニ・ヴォートリンは一生未婚だったし、シンディー・ヴォートリンさんの直系親族なので、その遺物はシンディーさんに保管されている。
シンディーさんは、ミニ・ヴォートリンのこれらの遺物は侵華日本軍南京大虐殺遇難同胞記念館に預けたほうが最も価値があると思い、物証資料も記念館に複製用に無償提供すると示した。
2002年7月20日、ヴォートリンの姪孫娘のシンディー・ヴォートリンさんとその娘さんが南京に来て「ヴォートリン日記」及び100件余りの貴重な文物史料を記念館に寄贈してくれた。ミニ・ヴォートリンは一生未婚だったし、シンディー・ヴォートリンさんの直系親族なので、その遺物はシンディーさんに保管されている。
シンディーさんは、ミニ・ヴォートリンのこれらの遺物は侵華日本軍南京大虐殺遇難同胞記念館に預けたほうが最も価値があると思い、物証資料も記念館に複製用に無償提供すると示した。
シンディー・ヴォートリンさん(左一)
最近、筆者は海の向こうにいるシンディー・ヴォートリンさんに挨拶のメールを送り、近況を尋ねた。
シンディーさんは、ミニ・ヴォートリンが残した南京大虐殺期間中に親友との文通を通じて、当時侵華日本軍南京大虐殺の罪及び1937年以後日本軍が南京を占領した時の状況を知ったと示した。2002の年南京の旅を振り返ってみると、歴史の真相を見たシンディーさんは曽叔母が中国難民を保護する善挙をよりよく理解し、中国を自分の家とした理由、そして中国人民が曽叔母に対する感情を理解できた。
南京師範大学の草木が茂るところにミニ・ヴォートリンの銅像がある。シンディーさんは2002年ここに来た時、銅像の前で長く立ち止まった。「曽叔母の生前のお好みで銅像の前に菊の花を植えればそれはとてもいいことです」と彼女が言った。
現在、南京師範大学のキャンパス内では、青々と茂る草木の陰の下で静かに立っているミニ・ヴォートリン女史の銅像は微笑みながらキャンパスを行き来する人々に向かっている。その下に「金陵永生」という文字が刻まれている。
あなたがやった全てのことに対して感謝します。それは今までもこれからも忘れられません。
ありがとうございます。