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  南京大虐殺期間中、暗黒な南京に留まったジョン・ラーベ氏など20人余りの欧米人士は中立国国民の特殊な身分で難民保護・救助において大きな力を発揮した。同時に命の危険を冒して報酬を求めず後へ引けずに難民救助に当たり大量の具体的で煩雑な仕事を引き受けた1500人ぐらいの中国側職員も同様に英雄である。

  1938年2月21日、国際委員会主席のジョン・ラーベ氏が告別演説で西方人士と肩を並べて戦った中国人を高く評価した:「我々外国人が今一定の成績を収めたと言えるならば、それは多くの忠実で友好的に助けてくれた我々の中国人友達のおかげです。委員会の各部門の実際の仕事は全て中国人がやっています。彼らが我々よりもっと大きな危険を冒して働いていることを正直に認めなければなりません……」

  記念館メディアセンターは今日から「中国人同胞が助け合う」という人物シリーズ特集を発表して、当時屈辱を我慢し難民と助け合う中国側職員のことを語る。今日はその第1話『韓湘琳:‘南京を離れる?良心が許さない!’』を出した。

  英語、ドイツ語、フランス語を精通する韓湘琳氏はジョン・ラーベ氏の中国語秘書であった。86年前、南京が危機に陥った時ラーベ氏の南京を離れろというアドバイスに対して彼は毅然として留まることを選んだ。後にシーメンス会社難民収容所の所長、国際安全区食糧委員会の主任になった韓湘琳氏はラーべ氏を協力してたくさんの難民を守った。最近記念館副館長の凌曦氏がチームを率いて上海へ赴き、韓湘琳氏の娘さんの韓雲慧さんを訪ね、その父親の思い出話を聞くことにした。

外国語能力が優れ、ラーベ氏に買われる

上海浦東新区のあるアパートで、すでに白髪だらけの韓雲慧さんを見つけた。1940年南京鼓楼病院で生まれ、6歳まで両親、兄弟と一緒に南京市広州路小粉橋1号のラーベ邸宅に住んでいた彼女は南京安全区国際委員会主席のジョン・ラーベ氏の中国語秘書の韓湘琳氏の娘さんである。韓雲慧さんは思い出の中の父親及び自分が小さい時の南京で暮らしていた状況を思い出して語ってくれた。

「父は1906年山東省臨淄県のある村で生まれた。家では三番目で二人の姉、一人の妹と三人の弟がいて、一人の弟は少年の時に亡くなった。私の祖父は農民で家計が貧しかったが、父と三人の叔母は一生懸命勉強した。」と韓雲慧さんは紹介してくれた。その父親は斎魯大学経済学部で勉強したが、二年生以後、経済的に困難になったなどの理由で学校を中退した。22歳の時山東省にある大学の家政学科を卒業した鄒翠珍氏と結婚した。

1931年11月ドイツ国のシーメンス会社南京支社に仕事に来たジョン・ラーベ氏は常に政府の役人や企業と応対するが、中国語が下手で、簡単な生活用語しか出来ないため中国人とうまく深い交流ができない。仕事のためにラーベ氏は中国人の韓湘琳氏を秘書兼通訳として雇った。

ラーベ氏と韓湘琳氏(右)シーメンス会社南京事務所にて

数十年ぶりにその娘さんの韓雲慧さんが思い出している:「父は外国語がとても上手です。英語や、ドイツ語、フランス語が得意なのは知っていました。当時ラーベ氏は一人の秘書が必要で生活の面で外国語がわかる人がほしいということを両親が思い出話をした時に聞きました。これらの条件にはふさわしいので試して面接を受けたら、双方とも満足しました。」その後、韓湘琳氏はずっとラーベ氏と一緒に仕事をして、その中国で働いている間の右腕であった。

「南京を離れる?良心が許さない」

日本軍が南京を侵攻する前に、その爆撃音はすでに南京で鳴り響いた。ラーベ氏から家族を連れて離れろとアドバイスされたが韓湘琳氏は断った。ジョン・ラーベ氏は1937年9月21日の日記に、「私は助手の韓さんが奥さんと二人の子供を安全な済南に送れるように前貸しをあげたが、彼はとても率直に‘あなたはどこにいれば私もそこにいる’と言った」と書いた。

1937年10月26日,ラーベ氏は韓湘琳氏と住宅の花園で初めて18倍拡大の新しい望遠鏡を使って頭上の7機の日本爆撃機を見られた。

これに対して韓雲慧さんは追憶してこう語った:「小さい時に父と母から‘実は行ってもいいが考えてみれば、行ってしまうのは良心が許さない’ということを聞いたのですが、当時はわからなかったのです。大きくなって考えて、当時なぜ南京を離れなかったのかが初めて分かりました。」

「子供の頃、‘本当に残酷だ、道は屍体だらけで、運転も揺れるほどだ’という話を父から聞いたことがあります」と韓雲慧さんが言った。

南京大虐殺期間中 一人で数職を兼ねた

南京大虐殺期間中、ラーベ氏の住んでいた小粉橋1号宅院内に設けられ、韓湘琳氏がその所長を務めた「シーメンス会社難民収容所」は600人余りの難民を保護した。

同時に韓湘琳氏は国際安全区食糧委員会の主任に任命された。史料によると1937年12月3日食糧委員会のメンバーは以下の通りだ:主任韓湘琳、副主任ヒューバット L.ソーンで、スタッフは孫耀三、朱静、蔡朝松(Tsang chao-sung)、晁老五、( Chao Lao-wu)、萧(Hsao)、C.C.孟(CC Meng) 、周保新 (T'ao Pao-tsin)(赤卍字会)。この中ではソーンだけが外国人だったという。

「ラーベ日記」の記載では、韓湘琳氏は昼間はよく国際委員会の本部で働いた。義和東煉瓦工場の社長の孫耀三氏も山東省の人で韓湘琳氏の友達である。1937年11月23日韓湘琳氏の紹介で彼は2台のトラック、10缶のガソリンと200袋の小麦粉をラーベ氏に贈った。これは国際委員会が受け取った最初の寄付であった。

食糧委員会の主な機能は食糧の輸送と分配である。南京失陥前、9076袋の米と1000袋の小麦粉が安全区に運ばれた。委員会は、各難民収容所の貧困難民に対しては無料で米を配るか食事を提供するが、少し支払い能力のある難民に対しては少量の現金を取ることにしていた。1937年12月17日から31日まで委員会は合わせて2035袋の米を配り、1938年1月は2721袋、2月は1935袋を配った。韓湘琳氏の主催下で、食糧委員会が効果的に運営し、難民たちの最低限の食糧供給が保障されることができた。

“小粉橋1号の庭の鉄門に銃剣穴が二つある”

1938年2月、ラーベ氏は南京を離れてドイツ国に帰る時、小粉橋1号の宅院を韓湘琳氏に任せた。韓湘琳氏一家は1946年まで住み込み、その間娘さんの韓雲慧さんと息子さんの韓克鐸さんはそこで生まれた。

韓雲慧さんは今でもはっきり覚えているのは、幼い頃小粉橋1号の宅院の鉄門に二つの銃剣の穴があるということだ。「父はそれは日本兵が刺した後だと言っていました。日本兵は中に入ろうとして絶えずノックしました。使用人が帰って来て報告する時ノックした日本兵は待ちきれず怒って銃剣で二刀刺したそうです。その鉄門は我が家は引っ越す時でも二つの穴がありました。」

「父母は次のことを話してくれました。ある日一人の共産党の地下党らしい人が誰かに追われて、我が家に逃げてきて身を躱そうとしましたので、父はその人を匿いました。日本兵は探しに来ましたが結局見つからなかったのです。父は心がとても優しい人で、人間は正直でなければならない、人を苛めたり良心に背いてことをしたりしてはいけないということをよく口にしていました。」と韓雲慧さんは追憶して語った。

1946年以後、韓湘琳氏は家族を連れて小粉橋1号の宅院から引越した。「父はその後何度も転職しましたので、私たちもあちこちに引っ越すしかなかったのです。」韓湘琳氏は家族と中華門内に住んだこともある。「私は荷花塘小学校で勉強したことがあります」、「父は1956年南京大学に入って普通の職員をしました。ほとんどの場合南大の印刷工場の出版課で働いていました。父はそこでタイピングをして、その速度はとても早いです。時々ドイツ語学科に人が足りない時父はそこでドイツ語の授業をすることもあります。」と韓雲慧さんは話した。韓湘琳氏は後に南京大学で定年退職した。

家族に写真を撮るのが好きだが、自分の映像は少ない

韓雲慧さんの家の壁に黄色くなった女の子の写真がある。その目が笑っていて、可愛くて強情そうに見える女の子は小さい時の韓雲慧さんだそうだ。「私はまだ目が覚めていないのに、写真を取ろうなど父に言われました。私は父に腹を立てて、おさげ髪を片方編んで、もう片方はどうしても編もうとしなかったのです。」

金夢さんがリメイク

韓雲慧さんの思い出では、早くから撮影が好きな父親は家族と親密でよく写真で多くの美しい瞬間を記録した。家に保存されている写真の中に自分の幼い時のもの、母や弟と撮ったものがあるが、一家の主の父親のが滅多にない。「これらの写真はみんな父が撮ってくれたものです。父は撮影が好きで、当時とてもいいカメラを持っていましたが、自分自身の映像はとても少ないです。自分の写真を撮るのは好きではないようです。後に特殊時期になって多くの撮影作品が紛失したため、なおさら撮りたくなくなったのです。」と韓雲慧さんが語った。

「撮影以外にたくさんの趣味を持つ父は印鑑を刻むのが好きです。幼い頃、端午の節句になると、父は必ず美しい卵の彫刻を作ってくれました。父はまた劇を聞くのも歌うのも好きで、小粉橋1号の宅院に住んでいた頃よく劇団を招いて劇を歌ってもらいました。その時家には父がコレクションした劇服がたくさんありました。」

南京で長年暮らしていた父親は訛りが変わったと韓雲慧さんは追憶した。「父は後に南京方言をしゃべって、とても標準的でした」と言って彼女は大笑いした。

1985年の初め、韓湘琳氏は病気になって南京市秦淮病院に入院した。「少し黄疸があって消化器系の問題かも知れないと考えられましたが、まだ病因が分からないまま間もなく亡くなりました。」と韓雲慧さんの義理のお姉さんの陳倩妤さんが追憶した。韓湘琳氏はその年の3月1日に秦淮病院で亡くなり、享年79歳である。

数年後、医療従事者の二人の子孫が上海で面会

83歳の韓雲慧さんは、メディアが近年父親に関する報道及びジョン・ラーベ氏の子孫が署名した『ジョン・ラーベ画伝』を大切に持っている。

また、『ラーベ日記』映画の上海上映会に招待され、ジョン・ラーベ氏の孫のトーマス・ラーベさんと上海で面会した。当時南京安全区で留守番した中国側人士と西洋人人士の子孫として、両方とも救死扶傷の医療従事者になった。トーマス・ラーベさんは韓雲慧さんに自分が署名した『ジョン・ラーベ画伝』を贈った。

韓湘琳氏は生涯4人の子供に恵まれた。長男と次男は南京大虐殺の前に生まれ、一人はチベットで、一人は安徽省で働き、現在は二人とも亡くなった。小粉橋1号に住んでいた頃生まれた二人の子供は、韓雲慧さんは上海に定住し、彼女より一つ年下の弟の韓克鐸さんは現在ハルピンに住んでいる。お正月の時にみんな集まって古い写真を見ながら父親がやった偉いこと、父親が残してみんなに影響を与えている「正直で善良な人間でなければならない」という家風を思い出して、父親を偲んでいる。

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