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  南京大虐殺生存者の鄭錦陽氏は2023年4月11日に亡くなられ、享年95歳である。

 1928年生まれの鄭錦陽氏は小さい時から南京中華門信府河49号に住んでいた。当時、祖父母、両親と弟のほかに、山東省から避難に来た叔母の一家も一緒にいた。母親は家庭の面倒を見、父親は中華門の外で手伝いの仕事をして、一家は幸せだった。 

 1937年8月から日本軍の飛行機が南京を爆撃し始め、防空警報はほぼ毎日鳴る。「当時、防空警報が1回鳴ったら飛行機が来た、2回は警報解除、ずっと鳴ったら緊急警報です。時には夜は家に掘った穴の中に寝ることもあります。」と鄭錦陽氏が語っていた。

  鄭錦陽氏は生前、絶え間ない爆撃は12月13日まで続き、城内は突然静かになって心が慌てるほどだった。まだ子供で長く家に閉じこもった二人のいとこは飛行機が来ないのを見て、外に出て遊んだが、何人かの日本軍に遭遇し、銃剣で持ちあげられて、残酷に殺害されたと話していた。

 抗日戦争の苦しい環境で勉強を続ける鄭錦陽氏は1944年南京師範学院(現在は南京師範大学)を卒業してから、新街口附近の小学校で働き、1985年南京釣魚台小学校で定年退職した。

 鄭錦陽氏は生前メディアのインタビューを受けた時、日本の右翼が南京大虐殺の史実を否認していることに言及し、「私は彼らに聞きたいです。1937年南京にいたの?南京に居合わせなかったら、私にそんな言葉を言う資格なんかありません。私の曽祖母はどうやって死んだの?七、八歳の二人のいとこはどうやって死んだの?歴史は言い逃れはきかない、歴史は捏造できるものではない!」と非常に憤慨して話した。


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