逝去した生存者の鄭錦陽氏のために消灯
6月2日午前8時30分、生存者写真の壁の前で、私たちは、2023年4月11日の夜亡くなり享年95歳の南京大虐殺生存者の鄭錦陽氏のために消灯儀式を行った。
「時間の証言者」とその証言
1937年、日本軍が絶えず爆撃したため、私たちは江寧に行きました。纏足で精神異常な娘をかかえている高齢の曽祖母は娘のことを心配して、家を離れようとしなかったのです。ある日、何人かの日本軍に家に侵入され足を一発撃たれた曽祖母は足に血が止まらず布団で傷口を塞ぎましたが、一週間後に不幸に亡くなりました。
「安民」の後、日本軍が人殺ししないとの噂で、私たちは初めて戻ってきました。その後、曽祖母の娘で私の義理の祖母の徐鄭氏は日本軍に何度も強姦されたことを知りました。
日本の右翼らが南京大虐殺の史実を否認するのを見て、憤りを感じました。彼らに聞きたいですが、1937年南京にいたのですか!居合わせなかったら、そんな話を言う資格なんかありません!私の曽祖母はどうやって死んだのか!歴史はお前らが捏造したものではありません!
歴史の事を昭かにして後人の戒めに
鄭錦陽氏の息子さんの曾昭容さん
曾昭容さんが母親生前獲得した『教育に三十年間従事の名誉証書』を記念館に寄贈
新中国の成立後、教師になって40年間教鞭を取った母親は、知識を授けると同時に自分の南京大虐殺での実体験をも学生たちに伝えました。母親は一生の精力を教育の事業に捧げ、更に南京大虐殺の歴史の真相を守り平和を大切にするために証言して呼びかけました。
鄭錦陽氏の学生の思い出
1944年、南京師範学院(現在の南京師範大学)を卒業して新街口附近の小学校で教職につき1985年に南京釣魚台小学校で定年退職した鄭錦陽氏は40期余りの卒業生を育て、桃李門に満ちた教師です。
鄭錦陽氏(前列左一)と学生との集合写真(王裔華さんより)
王裔華さんは「鄭先生はとても献身的で厳しい担任の先生です。各クラスメートの特徴や心境を知っている先生の前ではどんないたずらな子でもおとなしくするのです。卒業するクラスですから、自分や親に対して責任を持って、精力を勉強に集中してくださいといつも私たちに言い聞かせてくれます」と追憶しました。
許さんは「鄭先生は国語の授業がお上手で、学生にとても厳しいです。仕事に緻密でいつも学生に関心を寄せる鄭先生は学生一人一人の特徴に注意を払って、その良い学習習慣を身に付けられ、文化知識の基礎を築けるようにと育成しようとしていました。私たちはとても勉強になって、自分の文学素養も鄭先生の当時の教えと密接に関係しています。」と追憶して語りました。
記念館は鄭錦陽氏の逝去したニュースを発表した後、その学生はコメント欄にメッセージを記入しました。「韓工」というネットユーザーは「鄭先生は背が高くて、とても厳しいです。いつも私の作文に赤い筆でたくさんの○をつけてくれて、よくできたと褒めてくれました。ある日我が家は停電したため、晩ご飯の後、私は灯油灯の下で作文を書きました。すると突然、鄭先生の馴染みのある声が聞こえました。夜の家庭訪問だったのです。授業で喋るのが好きな癖を直して、国語や数学の授業をしっかり勉強しなさいと言いつけてくれました。」とのメッセージを記入しました。
ネットユーザーの「uncle濮」は「鄭先生の切実な教えは一生勉強になっております。小学校の時、わからないことがあったら、放課後よく集慶路にある先生のお家まで行って教えていただきました。その息子さんは私たちと同じくらいの年頃で、同級生で違うクラスでした。」というメッセージです。
「幸運神珠」のメッセージでは「鄭先生は慈悲深い顔つきで、父親の小学校の担任、啓蒙の先生でした。40年以上教育に携わりました。」と書いてあります。
灯が消えた鄭先生は既に空の星になって、永遠に私たちのそばにいます。