南京大虐殺生存者の阮秀英氏、楊静秋氏が逝去
南京大虐殺生存者の90歳の阮秀英氏が5月31日に亡くなり、94歳の楊静秋氏が6月1日に亡くなったことを悲しく知りました。
阮秀英氏:3回日本軍の手から死を逃れた
「1937年避難するために、父に連れられて水西門で船に乗りました。船が川岸に泊まったら、大きな懐中電灯を手に持った四、五人の日本軍が船に侵入し、船を調べました。十八、九歳ぐらいの叔父の次男は手にたこがあるから中央兵だと言われて、一発で殺されました。
翌年の春節に戻ってきたら、家(うち)の十数軒の家(いえ)が焼かれたため隣の家の草屋に泊まりました。ある時日本軍に出会い、その‘花姑娘’という言葉がわからないと示したら、それが一気に銃剣で私の頭を刺しました。私は刺されたところを塞ぎましたが、血が流れて止まらず目も見えなくなりました。こうして頭に大きな傷跡が残りました。
ある時、川で螺を取ったら、日本軍に機関銃で撃たれて、殺されるところでした。私はびくびくしてバケツを持って家へ駆けつけました。
またある時、日本軍がやたらに人を捕まえるのを見て私は父を抱きしめて泣きました。日本軍は私たちを地面に蹴り倒して2台の機関銃をそこに立てて、もう少しで私たちを殺すところでした。後で私は父と立ち上がってゆっくりとその場を去りました。
その時、人間は人間じゃなく、明日まで生きられるかどうかは天に任せるしかありませんでした。今は平和時代になって、みんな安定して幸せに暮らしていますね。当時、私たちは畜生にも及ばなかったのです。」
楊静秋氏:父親と兄は日本軍に捉えられた
「父親は黄埔軍校の学生で、5歳以後から再び会ったことがないです。家中誰も父のことを口にする人はいませんでした。解放してからの十数年、私はずっと父親の情報を探しましたが、いままで当時の黄埔軍校のクラスメート録しか見つかっていません。それにより父親は1925年期卒業の学生だということを知りました。父親は一家の大黒柱で、捕まえてから家族は山崩れになったように、病気中の母は倒れて意識不明になり、祖母はショックを耐えられずなくなりました。
結局、家には余裕がないので母は私の妹を王という苗字の家に送り込んで引き取ってもらい、王素明(南京大虐殺生存者、2022年3月逝去)と改名されました。
外で働く兄は背が低くて荷物を担ぐことができないため、いつも日本軍に殴られました。
ある時、下関に荷物を担ぎに行った兄は背中は殴られた傷だらけでした。日本軍に仕事に満足してもらえないため、兄はある日仕事に行ったきり帰ってこなかったのです。夜中まで兄の帰りを待った母は泣いてばかりいました。
今の平和は簡単に手に入ったものではないです。大切にしなければなりません!」