南京大虐殺生存者程文英氏の孫が文章を書いておばあさんの奮起する人生を分かち合う
南京大虐殺生存者は一日一日と年を取っていき、その記憶も後代の人が伝承することを期待されている。2月13日に南京大虐殺生存者程文英氏の孫の朱奕舟が文章を書いておばあさんの奮起する人生を分かち合った。
以下の内容は朱奕舟の文章によるものである。
おばあさん程文英は1936年1月に生まれた。おばあさんはそのお父さんに一番可愛がられた。1937年お父さんの程長河は当時40歳で、雑役夫で一家を支えた。お母さんは当時38歳で身ごもっていた。その年の冬おばあさん一家は避難する人の流れに従って安徽省の方向へ走ったが、あまりにも人が多すぎて、一家は仕方なく浦口の方へ行った。そこに着いて数日後に日本軍が来た。おばあさんはそのお父さんとお母さんについて林の中に逃げ込んで隠れた。しばらくしてから、お父さんは家のほうから火が燃えているのを見て、家に戻ってものを取りに行こうとした。林から身を出したとたんに、日本軍に見つかった。不幸なことに日本軍に銃でひどく殴り倒された。日本軍は人が倒れたのを見てはじめてその場を去っていった。お父さんはまだ息があったので、周りの人たちが助けに来てお父さんを運び戻ったが、まもなくお父さんは亡くなった。お母さんは悲しさのあまりにお腹の赤ちゃんに影響を与えたため、赤ちゃんが生まれた。家の支えが突然になくなり経済的に苦境に立たされたため、お母さんは胸が重苦しく、赤ちゃんが生まれてまもなく肺炎で夭折してしまった。
避難生活はやはり家を長く維持することはできない。外は少し落ち着いてから、おばあさん一家はまた南京に戻った。どんな困難にぶつかっても不屈に生きていくという信念が家族を支えたのである。お母さんは北向きの小さい家を借りて路頭で露店を出してタバコを売り、夜は手仕事をしたりしてなんとか一家の生活を維持した。後におばあさんの12歳のお兄さんと10歳のお姉さんはやむを得ず学校をやめて丁稚に行った。おばあさんの着る服はそのお兄さんやお姉さんの継ぎだらけの古いもので、体を覆い隠すだけでも容易なことではなく、男女別の衣服を求めるどころじゃなかった。おばあさんは学校に入ってから、雨の日でも、びしょ濡れの靴を翌日も履き続けなければならなかった。履き替えの靴がないからだ。生活は実に苦しかった。南京解放の直前、おばあさんのお姉さんは肺結核で治す金がなく結局死んでしまったのだ。
こんな状況の中で、おばあさんは勤勉に勉強して、各科目も同じ学年で成績が一番だった。中学一年の時、その学費はどうしても負担できなくなった。後に担任の先生や軍代表の助けのもとで、おばあさんは一級奨学金を獲得してはじめて中学を卒業できた。その後、政府の呼びかけに応えて師範学校を目指し南京市立師範学校に受かった。成績が優秀なので蘇北師範専科学校に無試験で推薦され学業を続けた。卒業してから大場中学校に入って働き、南京科利華中学校で定年退職した。
おばあさんはいつも言っている。「自分の知っていることを話し出す責任があります。記憶は伝承が必要で、歴史は忘れることはできないです。わたしたちは先人の代わりに赦す資格なんかありません」
現在、おばあさんは老人大学に入って、ハーモニカー吹きを勉強している。いつも後輩たちによく勉強し今のいい生活を大切にするようにと教えている。
南京大虐殺生存者の程文英氏がハーモニカを吹いている