動かぬ証拠!「慰安婦」制度は日本の戦時中の国家犯罪
現地時間の1月31日に、国連人権理事会が日本の人権状況を審議するにあたり、中国側は日本の人権侵害の深刻な問題に対して関心を示した。中国側の代表は日本は「慰安婦」などの問題に対して歴史的罪を薄れさせ逃避していると指摘している。中国側はまた日本に「侵略の歴史を正視して反省し、責任を取る態度で歴史問題を妥当に処理し、被害者に賠償を提供するべきだ」とアドバイスしている。
「慰安婦」制度は日本軍国主義者が第二次世界大戦中において実施した人権侵害のものであり、組織的な国家犯罪である。南京は日本軍がそれを早くに実施した都市である。資料によると、戦時中日本軍は南京に少なくとも70箇所の慰安所を設け、どのぐらいの女性被害者を出したのかは計り知れないという。
日本軍は南京へ侵撃する過程で、蘇州、無錫、常州、鎮江などのところを相次いで占領し、大量の性暴力事件を起こした。性暴力行為が日本軍の中で性病を蔓延させ、南京において「慰安婦」制度を確立することに至らせたのである。1937年12月19日、飯沼守が上海派遣軍参謀部第二課課長の長勇を上海まで派遣し南京で慰安所を設立することを連絡に行かせた。12月28日、上海派遣軍参謀部第二課は南京で所轄各部の高級幹部を集め会議を行った。「第二課が出した南京に慰安所を設立することに関する提案を審議した」、この提案は会議で可決された。こうして、「慰安婦」制度は日本軍の一つの正式制度として南京で確立された。
その時、上海派遣軍は既に初回の南京へ赴く「慰安婦」の候補者を選定し、そして出発前の身体健康検査に着手した。このことから、日本軍の「慰安婦」制度が確立した後速やかに執行したこと、性病が日本軍の中で深刻に広がったことがわかった。
「慰安婦」制度が確立する前後、日本軍は既に本土で「慰安婦」を募集し中国の戦場に送り始めたのである。しかし、遠水は近火を救うことができない。本土で募集した「慰安婦」は一時着くことができず南京の日本軍の欲求を満たすことができなかった。そこで、日本軍が思いつく一番便利な解決方法は南京現地で「慰安婦」を募集することであった。
当時の『申報』にはこんな記事があった。「全城妇女,本集在金陵大学内。城陷五日后,敌逼我妇女组南北二慰安会,供其奸淫。」(全城の婦女はもとは金陵大学に集まった。南京城が陥落して五日後、敵が我の婦女を強制して南北二箇所の慰安所を組織し、性的サービスをさせられた)
『大公報』も当時社説において、「在上海南京等处,敌寇现在依然在各地监禁着我们几千几百的善良妇女,做营妓公娼。」(上海や南京などのところで、侵略者は依然として各地でわれわれの何千何百もの善良婦女を監禁して、日本軍の性的慰安をさせている)と指摘していた。
1937年12月22日、南京一番目の日本軍慰安所――傅厚岡慰安所が正式に建立された。ここは南京大虐殺期間中日本軍が現地の漢奸を唆して開設した最も早い慰安所だった。その中の「慰安婦」は日本軍が難民収容所から選んだ中国人女性の可能性が大きい。
現在の南京利済巷慰安所の遺跡陳列館は日本軍慰安所の旧跡の上に造られたもので、現在南京において最大規模の慰安所旧跡である。利済巷2号と18号の家は戦時中日本軍に占拠され、東雲慰安所に改造された2号の中の女性は全部朝鮮半島の「慰安婦」で、故郷楼慰安所に改造された18号の中の女性はみんな日本本土の「慰安婦」である。
日本語の資料、即ち1938年の『海外各地在留本邦内地人職業別人口表』によると、南京で「芸妓、娼妓、酌婦その他」に携わる職業の統計においては、743名の日本女性が登録されており、前年度より人数が急増しているという。
上述の資料から、南京における日本軍の実施した「慰安婦」制度の規模がわかる。しかもその数字には中国の「慰安婦」が含まれていなかった。
南京利済巷慰安所旧跡
1938年旧暦のお正月,南京日本軍慰安所の門の前で押し合う場面-洞富雄(日本)『日本事変―上海派遣軍司令部記念写真』により