南京大虐殺生存者の子孫から「彼らのこの10年間」
今年は南京大虐殺が発生してから85周年である。現在、南京大虐殺生存者はわずか55人になっている。生存者たちはますます高齢になり、彼らの記憶を後世に受け継いでもらう必要がある。先日、記念館は「この10年間・祖父と祖母の物語」をテーマに、生存者の子孫を対象にして作品を募集した。彼らは、記憶伝承の視点から先祖たちの経験を語った。現在、このシリーズは、すでに6期の内容が発行されている。
南京大虐殺生存者の王恒氏は、今年4月7日に100歳で逝去した。1937年に南京が陥落した後、王恒氏の父親は日本兵に殴られたり、蹴られたりして、全身が腫れて、正月を迎えられずに亡くなった。王恒氏の孫娘の王蓮さんは、祖父が89歳の時、ウェイボーを開通してネットで自身の歴史経験を語り始めた。生活では、祖父はいつも勤倹節約で、とても熱心な人だと彼女は紹介した。
南京大虐殺の間、艾義英氏の父親の艾仁銀氏、叔父の艾仁炳氏と艾仁林氏、いとこの艾義生氏と艾義栄氏、「平」という苗字を持つ叔父の父子が日本兵に連行された。後に、艾義栄氏だけが救助され、他の6人は日本軍に殺されたため、「艾家未亡人」だけが残った。艾義英氏の孫の黄睿さんは文章で、「このことを話すたびに、祖母は涙があふれてむせび泣きが止まらなかった」と書いた。祖母は4人の息子を育て、3人の孫娘と1人の孫ができ、また2人の重孫娘と1人の重孫がいる。子孫たちはみんな親孝行で、艾義英氏は今は幸せな晩年の生活を送っている。
2022年旧暦の正月の前夜、凌曦副館長は艾義英氏を見舞いに行った
葛道栄氏は1927年に生まれ、今年で95歳になった。南京大虐殺の間、叔父の葛之燮氏、潘兆祥氏と王均生氏が日本軍に殺された。 歴史を記録するため、葛道栄氏は数年間をわたり、家族の境遇を十数万字の個人回顧録にまとめ、「家宝」として葛家の子孫に伝えた。現在、葛道栄氏の孫娘(彼の娘の葛雲さんの子供)である葛芊影さんは、記念館の紫金草ボランティアになった。彼女はよく記念館の社会教育活動に参加して、「歴史を銘記し、平和を大切にする」という平和の種をより多くの人に伝えている。
ジョン・ラーベ氏が1938年2月11日に書いた日記には、ある悲惨なことが記録されている。「12月13日、日本軍約30人が(中華)門東の新路口5号に現れ、そこに住んでいる夏氏一家のほぼ全員を殺された。部屋に残っていた約7、8歳の女の子が日本軍の銃剣で刺された」その7、8歳の少女は、夏媛さんの祖母夏淑琴氏である。「当時20代の彼女は、昼は仕事をして、夜は夜間学校に通っていた。彼女は勤倹節約で、子孫に多くの本を読み、何事も事実を尊重するように教育していた」。今年の8月15日、夏媛さんと息子の李玉瀚さんは夏淑琴氏から、「南京大虐殺の歴史記憶伝承者」の証明書を受け取り、「次の十年、その次の二十年も、この「バトン」をしっかり手に握って、南京大虐殺の歴史記憶を継承していく」と彼女は決意を示した。
阮傑さんは、生存者の阮定東氏の孫である。小学生の時、彼の書いた作文『私の祖父』が学校で受賞し、家に帰ってその作文を祖父に読んで聞かせてあげたら、祖父は黙って涙を流していた。この作文は祖父に、1937年12月、阮定東氏の祖父の阮家田氏が、当時わずか7ヶ月の阮定東氏を抱いて南京江北に逃げたことを思い出させたからである。南京燕子磯付近の揚子江のほとりに逃げた時、祖父は繦褓の中の阮定東氏を守るため、日本兵に刺されて重傷を負った。祖父は激痛に耐えて必死にボートに乗り、川を渡った後支えきれず、川のそばで倒れた後、家族に家に運ばれたが間もなく亡くなった。まだ47歳だった。阮定東氏は今、オンラインで象棋をするのが好きである。コミュニティも記念館も彼の生活を大切にしている。孫の阮傑さんは記念館の紫金草ボランティアであり、高祖父と祖父の南京大虐殺の経験を国内外からの見学者に伝えている。
1937年12月13日、9歳の常志強氏は家族が日本軍に殺されるのを目撃した。母は死ぬ前に一番下の弟に最後の乳を飲ませた。常志強氏はその後孤児になった。常恺芸さんは祖父のことについてこう書いている。「祖父は生きていくために、油条やお菓子を売ったり、紫金山で松の針や枯れた枝を拾ったり、米も売ったりして、色々なことをして生き残った」。この10年間は、祖父は劇曲を歌ったり、絵を描いたり、切り紙をしたり、本を読んだりして、とても充実した生活を送っている。祖父の胸には「桃源郷」があるのだろう。