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  先日、93歳の中国台湾住民の笪鴻輝、知人にビデオを撮ってもらい、大公報記者に送った。彼は、7歳の時の避難行という屈辱的な経験を訴え自分が健在するうちに、当時中国侵略した日本軍の暴行を告発したいと考えた

  1931年8月、笪鴻輝氏は南京に隣接する句容に生まれた。7歳の時、彼は家族に従って句容から数十キロ離れた茅山の奥に避難した。幼い頃の屈辱は、彼に心に深く刻まれた。

  1937年8月13日から、中日両軍は上海で激戦した。1937年11月5日、日本軍第10軍は杭州湾に上陸し、11月12日、上海は陥落した。日本軍が上海を占領した後、多くの道に分かれて南京に向かって進行し、京杭国道にある句容を通った。「父は三番目のおじさんと二人の兄を連れて、慌てて西へ避難行した。私はまだ7歳だったが、断固として随行しなければならない」。幼い笪鴻輝氏は、細長い布袋を背負っていて、中には炒めた米が入っていた。彼は三番目のおじさんの自転車の後ろに縛られた三枚の布団の上に座って、あぜ道に沿って道路に入ったと回想している。

  「子供が泣き、老人がうめき声を上げ、青壮年が野原に行って食物を探し、世の中の惨めな亡命地獄図のようであった」。笪鴻輝氏は、パニックに陥った大人たちがどこに逃げるかという問題を、生半可な気持ちで聞き取っていた。

  笪鴻輝氏によると、彼は7歳の物を記憶できる時から15歳の日本が降伏するまでの8年間を日本軍の占領支配下で生活し、その時の屈辱を四六時中心に刻んだという。

  笪鴻輝氏は、後に雑貨屋、写真屋の弟子になったことがある。1949年、19歳の彼は、人の紹介によって、中国台湾省澎湖馬公要塞漁翁島東鼻頭第二砲台で兵役に服し、文書上士となった。3年間兵役したが、夜盲症のため退役した。彼は後に、台北市の工場での総務、小学校教員、公務員を経て、工場を経営し、1981年退職するまで働いた。

  歴史を探究するために、笪鴻輝氏は退職後5回日本に行った。「中国を侵略した日本軍は、中国人を傷つけ、深い傷痕を残した。それは、単なる『血海深仇』という4文字では説明しきれない」と彼は言った。


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