南京大虐殺生存者の濮業良氏、王素明氏が相次いで逝去
南京大虐殺生存者である濮業良氏が、2月28日に、100歳で逝去された。また、南京大虐殺生存者である王素明氏が、3月23日に、87歳で逝去された。現在、登録されている生存者は58人になった。
王素明氏のもとの名前は「楊」で、1937年2歳になったばかりの彼女は、祖母、両親、兄弟と一緒に南京の仙鶴門というところに住んでいた。彼女の父親は、当時、龍潭中学校の校長を務めていた。日本軍が南京を占領した後、父親は「破壊分子」の容疑で日本軍に逮捕され、まもなく殺害された。母親は子供を育てる余裕がなく、4人の兄弟を別々の家族に養ってもらった。4人の兄弟は、4つの名前を持つようになった。素明氏は、名字が王の家族に養子縁組されたので、「王素明」という現在の名前に改名された。
王素明氏は、1990年に退職して以来、南京の馬府街社区(コミュニティ)でボランティア活動を行い、居住委員会の委員、社区高齢者委員会主任などを務めてきた。南京でユースオリンピックが開催された際、王素明氏は、秦淮区で最年長のユースオリンピックボランティアとなり、「青檸お婆ちゃん」と親しんで呼ばれていた。
去年の夏、記念館の凌曦副館長は、スタッフを引率し、王素明氏を訪問した。彼女は、有望な孫たちを誇りとして紹介した。これまでの数年間、王素明氏は多くの表彰状を獲得した。「SARSと戦った時、オリンピック及びユースオリンピックの時、私はずっと最前線にいた。コロナの時、私は2,000元も寄付したわ!」と彼女は率直に話した。
南京が陥落する前、濮業良氏は8人家族の生粋の南京人で、彼の父と伯父は雨花路でダックの店を開いていた。日本軍が南京を攻略した後、濮業良氏の二人のいとこは、相次いで日本軍に殺された。濮業良氏も苦役として日本軍に捕らえられたが、後で逃れた。当時危険が迫ってきたので、家族は店を捨て、南京江北六合に避難するしかなかった。翌年の春、濮業良氏は南京市内に戻った。彼は生前、川を渡る時の悲惨な光景について「浮橋が傾いていました。船の上や長江畔に多くの死体が溜まっています……城壁の土台、近くの屋根の上に、城壁から落ちた難民の死体も見ました」と語っていた。
大虐殺から生き残った濮業良氏は、晩年では子孫も多く、南京で平穏な生活を送っていた。
濮業良氏の99歳の誕生日に、記念館のスタッフがお宅で、「生存者を見守る」というドキュメンタリー映画を撮影した。今年の旧正月前、記念館の時鵬程副館長が濮業良氏を訪問した。南京侵華日軍被害者援助協会も、今年の濮業良氏の百歳の誕生日のお祝いについて計画を立てていた。しかし残念ながら、百歳の誕生日を迎える前に、濮業良氏は私たちから離れてしまった。ドキュメンタリー映画にあるシーンは、最後の記憶となった。