湖南岳陽では新たに5名の慰安婦制度の被害者を確認
5月8日から9日まで、我が館の分館である「南京利済巷慰安所旧跡陳列館」のスタッフは、湖南岳陽で新たに5名の慰安婦制度の被害者を確認した。彼らは、95歳の凌お婆さん、余お婆さん、102際の劉お婆さん、99際の陽お婆さん、92際の呉お婆さん。(以上の方の名前と写真は被害者本人或は家族の許可を得て公開した)
現在、全国では認証を得て、生存している侵華日本軍「慰安婦」制度の被害者人数は18人に増えた。

102際の劉年珍お婆さんは目前中国大陸地域における年齢が一番高い日本軍慰安婦制度の受害者

95際の凌お婆さんはあの時の経験は言いにくいと思っている

99際の楊お婆さんは今まで悪夢に悩まされている

子供が産めなくなった余お婆さんは95際になった

92際の呉お婆さんは、日本軍に捕まったことだけをハッキリと覚えている
「日本軍が悪すぎるよ。たくさんの日本人は、昼も夜も集団的に私を虐めた.....逃げないと、死に至るまで虐待されたよ。」
凌英嫂氏は、湖南平江出身で、1924年10月に生まれ、8歳の時から引き取った嫁になった。
1939年秋、日本軍が平江にやって来、凌英嫂を捕まえ、当地のある部屋に閉じ込めた。その後、彼女の嫂も、外地から避難に南京に来た一人の女性も部屋に閉じ込められた。部屋にはベッドも、蒲団もなく、地上で寝るしかできなかった。三人はその部屋で日本軍にいじめられ、少し反抗しすると、殴られるのであった。

日本軍が群れを成してその部屋に来ていたが、凌英嫂氏は、怖くて、日本軍の暴行に任せていた。凌英嫂氏は、他の部屋から女性の悲惨な声を聞こえた。それらの女性の中、彩大嫂と呼ばれた人が精神的な病気にかかった。早く逃げないと死ぬまで苛まれるだろうと考えた凌英嫂氏は、四日間後の夕方頃、日本軍が夕飯をしているうちに、もう二人の女性と慰安所から逃げた。

それに気付いた日本軍が、彼女たちを射殺したが、外地かた来た女性はその場で死んでいたが、もう嫂は右の手が負傷して、凌英嫂は幸いに逃げ出すことができた。
凌英嫂しばらく山の上に隠れていた。
日本人の暴行を受けてきたため、劉年珍お婆さんは現在に至っても、日本人を怖がり、人に触れるのが嫌がっている。
劉年珍氏、湖南岳陽の人で、1918年4月生まれである。
1944年秋、日本軍が劉年珍の故郷岳阳に侵入した。村の人たちは、次々と逃げ出していたため、彼女も靴を亡くしたほど走っていた。しかし、結局は、他の女性と一緒に日本軍に捕まえられ、山の奥の簡易部屋に閉じ込められた。それらの簡易部屋は、村民たちが日本軍の侵害を逃げるために作った避難所のようなものである。

劉年珍の逃走を防ぐために、日本軍は彼女の両手と両足を縄で縛った。劉年珍ははだしになり、怖がって、まるく縮こまった。その後、日本軍の強姦に反抗しようとする彼女は、日本軍に殴られ、威喝されたていたため、彼女は現在でもよく夢の中であの時の情景を見た。
そうして、劉年珍は昼も夜も日本軍にいじめられ、そして、毎回は何人かの日本軍は一緒に来ていた。
劉年珍は少なくとも七、八日間或は十何日間も閉じ込められた。怖がり過ぎたので、彼女はもうはっきりと覚えていないと言う。

ある夜、日本人が用心を怠けた時、彼女はチャンスを見つけて、山から家まで逃げた。
劉年珍氏は、結婚後子供ができなく、弟の子を養子に迎え、今はその養子に面倒を見てもらっている。
その日は、ちょうど劉年珍お婆さんの誕生日で、誕生日ケーキを持って行った。彼女のご健康とお幸せを祈る。
99歳の楊桂蘭氏は、今になってもよく悪夢を見る。悪夢を見る時、布団や服を地上に投げ、おまるをひっくり返る。彼女の世話をする人は、夜通し電気を付けて寝るしかない。
楊お婆さんは、過去を思い出すと、辛くなると言っている。
楊桂蘭氏、湖北通城人で、1920年9月に生まれた。
1939年4、5月の頃、日本軍が楊桂蘭氏の実家である湖北通城に侵略し、彼女の隣家の人を殺して、彼女ともう二人の女性を連れていった。その中の一人は「三妹子」という。
日本軍は、楊桂蘭氏とほかの女性たちを村の祠に閉じ込め、彼女に暴行を加えた。楊桂蘭が反抗すると、日本軍に打たれるため、怖くてぼっとなっていた。
日本軍が来るたび、群れを成して、昼も夜も問わない。

楊桂蘭氏はもっと遠いところへ送られたはずだが、彼女が十何日間閉じられた後、チャンスを見つけて逃げ出した。彼女は家へ戻る勇気がなく、そとで一ヶ月間身を隠してから帰宅した。

日本軍に暴行を働かれた楊桂蘭氏は、妊娠できなくなったため、女の子を養女に迎えた。
楊桂蘭氏のことを知った旦那は、妻にやさしかった。楊桂蘭氏も旦那が亡くなられて十何年以降も、旦那のことを思っている。
楊桂蘭氏は、当地の老人ホームに入ったが、今年から自分で生活がままならなくなり、親戚たちがお金を集めて世話人を雇ってあげた。
余お婆さんも、日本軍の暴行で妊娠できない体になった。子供を可愛がっている余お婆さんは、嫁が不妊手術をしようとすることがなければ、絶対にその経歴を言い出したくないだろう。
余愛珍氏は湖南平江の出身で、1924年3月も生まれた。
1944年余氏は日本軍につかまり、当地の慰安所に閉じ込められた。十数日後、彼女は家に逃げた。
余愛珍氏は誰にもそのことを言及したこともなく、結婚後子供が産めなくて、養子をもらった。

嫁が三人目の子供を産んだ後、不妊手術をしようとする時、余愛珍氏は嫁に手術をやめることを願って、自分が子供をできない原因を嫁に教えた。
余愛珍氏は、特に子供が好きで、孫の三人を育てた。養子が三年前に亡くなったため、今嫁から面倒を見てもらっている。
呉お婆さんは、過去のことで、よく冷たい扱いをされた。今の呉お婆さんは、ぼんやりしている時もあるが、日本軍に捕まった時のことをよく覚えている。
呉俸貞氏、湖南平江の出身で、1927年12月に生まれた。
彼女は十四歳の時、お嫁さんになり、十七八歳のある日、妹の家から帰宅する時、村の出入り口で日本軍に捕まって、慰安所に閉じ込められた。

日本軍に少し従わないと、呉氏は殴ったり蹴ったりされ、革の鞭で叩かれた。
十数日後、吴俸貞氏は慰安所から逃げて、村民に家まで送られた。家に戻った呉俸貞氏は、全身傷だらけで、旦那は漢方薬を使って治療してあげた。
呉俸貞は、自分の経験を恥ずかしく思って、妹にしかそのみじめを話しなかった。彼女はよく冷たい扱いをされた。

呉俸貞が87歳の時に頭蓋骨の手術を受けたため、記憶力が衰えている。
しかし、日本軍から与えられた傷は癒されなかった。今の呉お婆さんは、三人の息子に面倒を見てもらっている。
お年寄りは年を取っていく。
わが記念館と利済巷文館のスタッフは、時間と争っている。
私たちは、ボランティアたちと一緒に生存している慰安婦制度の被害者を探している。
もし、何か情報をございましたら、南京利済巷慰安所旧跡陈列館にご連絡お願いいたします。025-58598353(火曜日から日曜日まで 9:00-16:30)。
一名多くの方が見つかったとしても、暗い歴史を引き上げることになる。
本期編集者|刘広建、赵伊漢、王詩婕
撮影|南京日報 馮芃
ニュースソース|上海師範大学「慰安婦」問題研究センター
