1937年のクリスマスイブは平和ではなかった|国際友人日記にての南京
1937年のクリスマスイヴは
クリスマスツリーがなく
クリスマスソングやディナーもなく
南京は傷痕だらけになってしまった
「私が今落ち込んでいる怖い災難は、子供時代の信仰を思い出させた……明るい道に踏み入れるところになるかもしれないが、私たちはもはや疲れ果てた。」
ーージョン?ラーベ
1937年12月24日
その日
力が尽き果てた南京市安全区国際委員会主席のジョン?ラーベ氏は
日記に以上の文字を書いた
安全区以外
殺戮が続けている
「八時に、馬の飼料を取るために南京の桟橋に着いたが……岸壁から下を見回し、波の荒い瀬に、驚くほどの風景が視線に入った。一見、河畔の砂石だと思っていたが、数知れない死体が川面に漂って、何百、何千人もいるのであった……」
ーー小原孝太郎
1937年12月24日

1937年末、いくつかの日本軍が南京バラ理髪館の前で、粗末なクリスマスツリーを囲んで楽しんいる
「24日に、もう一度南京市の警戒を担任した。市内の難民区に逃げ込んだ中国人を二種類に分けられた。かわいそうな中国兵は揚子江に放り投げられ、魚の餌になった……前述した7000人の捕虜も魚に与えられた。」
ーー林正明
1937年12月25日
罪のない平民は
労作したり
街で歩いてしたりするだけで
日本軍に予告なく殺害されるかもしれない
「医者のウィルソン氏は私に、何人かの患者さんを見せてくれた……漁師は顎が銃弾を受け、全身にやけどを負った。日本人にガソリンをかけられ、火をつけられたため、全身の皮膚の三分の二がやけどした。彼はまだ話ができるが、明日まで生きるはずがないと思う……。
モルグも入っていた。昨日の夜に送り込まれた死体の布を開いてもらって……約七歳の男の子は、全身に四か所刺傷があった。その中の一つは胃の辺りで、指の長さくらいの傷であった。彼は病院に送った二日後に死んだのである。」
ーージョン?ラーベ
1937年12月24日

焼け殺された平民
幸いに逃げられた難民たちは
外国人が作った安全区に逃げ込んだ
安全区内でも十分安全ではないが
少なくとも一縷の生きていく望みがある
「私のところに避難民が350人~400人いると思ったが、韓さんの詳しい統計によると、私の事務室と庭に宿泊している人は全部で602人であった。(男性302人、女性300人がいる。その中には10歳以下の子供126人、2ヶ月しかない乳児もいる)。
この統計数字には会社の社員14人、雑役、家族などが含まれていなかった。そうしたら、総人数は650人もあった。」
ーージョン?ラーベ
1937年12月24日

「午後4時30分に、私は金陵大学に行った。その前、泣いている婦女たちから、日本人は難民の中から男性を選んで、身分を証明できないと殺すとのことを知った。
多くの女性が恐ろしい苦境に陥った。夫と家に隠れたが、日本兵が来た時に、夫は銃剣で追い出され、女性たちは強姦された;金陵女子文理学院に避難し、夫を家に残したら、夫は兵士として捕らえられ、銃殺される可能性もある。」
ーーミニー?ヴォートリン
1937年12月24日
侵略者は依然として横暴に安全地帯に侵し
兄弟を奪略し
姉妹を姦淫する
うちのカイコ工場だけでは、毎日平均10件の女性暴行が発生している。
日本の兵士は昼も夜もなく、私達の住所に侵入し、女性を辱め、気になる物を全部掠める。
中国人の住所だけでなく、アメリカ人の住む家も同じである。
ーーM.S.ベイツ
1937年12月25日
「十時に、私は事務室へ呼びつけられ、日本のある軍団の高級な軍事顧問に面晤した……彼から、一万の難民の中で100名の妓女を選び出すことを要求された。彼らは、日本兵のために合法的な行き場を作ったら、これらの兵士はもう罪のない良家の女性に邪魔しないと思っている……長い時間が経って、彼らはついに21人の女性を連れ出して行った。多くの娘が私に、日本人は彼女たちの中から後の79人も連れ出していくかと聞きに来た。私が答えられるのは、もし私が止めることができれば、そんなことにならないはずだろう。」
ーーミニー?ヴォートリン
1937年12月24日

1937年の「クリスマスイヴ」
火の光は南京の夜空を照らし
罪のない命が戦争に飲み込まれている
「私は以下の祈りをもって、今日の日記を締めくくる
慈悲深い神様、すべての人が災難に遭うことを免れてください、私達のようなすでに災難に陥った人を保護してください!
私はここに残ったことに一切悔しくない。私の存在が多くの人の命を救ったからである。
それでも、極めて辛さを味わっている!」
ーージョン?ラーベ
1937年12月24日
「大火は依然として南と東の空を照らしている。言うまでもなく、すべての店が略奪され、放火されて燃えている。
南京は見たくない。もはや廃墟になったからである。」
ーーミニー?ブォートリン
1937年12月24日
安全区に避難する難民は
驚きのあまり外の気配を聞いている
もしその中誰かがまだ願いがあるとしたら
それは絶対に
生きていくことである
本期編集 | 趙伊漢
資料来源 | 『ライべ日記』『ミニー?ブォートリン日記』『南京大虐殺歴史』