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  去る一ヶ月の間に、5名の南京大虐殺生存者と別れを惜しんだ。王津氏、張仕翔氏、袁桂龍氏、常志強氏、馬庭禄氏である。2023年1月6日までネームリストに登録されている南京大虐殺生存者はわずか49名だけが健在している。

  王津氏は1931年9月の生まれである。家は南京南珍珠巷676号にあり、自営業で家計が立てられていた。1937年南京陥落後、日本軍がその家に突進して人を捕まえに入った。当時、王津氏の父親と玄関口にいた隣人の劉志清氏が一緒に日本軍の炊事場まで捕らえられ、働かされた。劉志清氏が天秤棒で水を担いでくること、王津氏の父親が玉ねぎの皮を剥くことをさせられた。ある日の午後、一人の酔っ払った日本軍が入り、炊事夫たちがみんな土下座や拱手の礼をした。王津氏の父がうつむいて玉ねぎの皮を剥いていたところだったので、礼をしなかった。その日本軍が怒り出し、刀を抜き出して王津氏の父親に7刀を突き刺したあと、洞穴に引きずった。一ヶ月後、劉志清氏が戻ってきたが、王津氏の父親は永遠に帰って来なかった。

  王津氏一家の家は日本軍に焼却された。王津氏と母親は夜になると野菜畑の溝で寝るほかはなかった。戸の框、腰掛け、テーブルなどでバラックを作り、外から中へ這って入った。死体が多すぎて、王津氏は毎晩それの上から這って溝のバラックの中へ入った。十数日後、外は少し落ち着いたので、はじめて草などでバラックの上を覆い、粗末な家をつくることができた。

  王津氏は2022年12月24日に亡くなられ、享年91歳である。

  張仕翔氏は1930年10月の生まれである。南京陥落後、その一家は難民区に逃げていって避難した。張仕翔氏は生前、「難民区にいる難民は実に多すぎて、立つところもないぐらいだった。夜は冷たい床に寝るしかなかった。」と追憶した。後に、彼の父親は家族全員を連れて親友のところへ避難に行った。町へ出かけてはいけないこと、大声で話してはいけないことを知らされて、終日部屋の中に身を隠した。母親は毎日クロゼットの中に隠れて、2ヶ月ぐらい立ってはじめて気持ちが落ち着くことができたという。

  張仕翔氏は2022年12月27日に亡くなられ、享年92歳である。

  袁桂龍氏は1934年4月生まれである。1937年南京陥落後、彼の父親と伯父が日本軍に殺され、一家の瓦屋や草屋が十数軒焼かれてしまった。袁桂龍氏は「父袁徳福は日本軍に拘束されて我が家の北側にある王庄村まで連れられ、そして、縄で大きな木に縛り上げられて、活人の標的にされた。銃剣を手に持って並んだ日本軍は人間性を失い、押し寄せてきて、競うように軍刀で父を斬った。父は全身刺されて血まみれになって、数十刀切り刺された後、悲惨に死んでしまった」と、生前こう追憶した。袁桂龍氏の伯父の袁徳宏も日本軍に殺され、死体さえ見つからなかった。「わたしの祖父母は燃え盛った家屋から這い出した。二人の息子を失い、全ての家が全焼されてしまい、生きていく希望がなくなったため、目が見えなくなり、病気で倒れ、相次いでこの世を去ってしまった。」後に、袁桂龍氏は教師になって、38年間学校で働いた。生前、「わたしは教師として、子孫や生徒にこう教育する。国の恥を忘れずに、中国人民のこの苦難の歴史をしっかりと胸に刻んでほしい。そして中華の勃興のために努力し、歴史の悲劇が繰り返されないように精一杯頑張って、祖国をよりよく建設することを激励する。」と話していた。

  袁桂龍氏は2022年12月28日に亡くなられ、享年88歳である。

  常志強氏は1928年2月の生まれで、子供の時は南京市八宝街1号に住んでいた。家族は10人で、曾祖母、祖母、父親、母親、姉、常志強氏、そして4人の弟がいる。幼い頃の常志強氏は聡明で賢く、年長者のみんなに可愛がられていた。いつも父親に肩車をしてもらったり、夫子廟で雑技を見る時いろんな食べ物を買ってもらったりした。しかし、このような幸せは1937年12月13日にとどまった。

  南京陥落後、常志強氏一家は難民区へ逃げ出した。「その時、日本軍はもう入ってきた。小さい弟を抱いた母親は胸を刺されたが、弟を手放そうとしなかった。又、日本軍に刺され、弟を手元から放して倒れた。母親の胸から血がこんこん噴き出した。小さい弟が大声で泣きながら母親の胸へ這い乳を飲もうとした。私はさっそく母親のところに駆け寄り、弟をそのそばに寄せた。胸をひどく刺されて重傷した母親はもう話すことができなくなったが、最後の力をつくしてわたしの弟に乳を飲ませた。その時、弟は日本軍に銃剣でお尻を突き刺され、一発遠くへ投げ出された。父親も日本軍に射殺された。恐怖のあまり私はふらふらして意識を失った。」と常志強氏は生前、涙ながら追憶した。その場で母親が日本軍に突き刺されて死に、弟の涙、鼻水、母親の血水、乳が凍結してかたまりになった様子を目の当たりにした常志強氏はこれを思い出すたびに涙が止まらなかった。

  この日は常志強氏の人生の中で一番暗い日だった。父親、母親、四人の弟が日本軍に残酷に殺された。その後しばらくしてから、姉も急性伝染病にかかってなくなり、常志強氏は孤児になってしまった。

  青年になった常志強氏は人の紹介で当時計画建設中の中央化学工場で雑役夫をし、ステップを踏んで技術のポジションにつき、全工場の設備管理役を務めるようになった。数年後、結婚して四人の子供を授かった。

  1985年8月15日に、記念館ができあがり、オーペンした。当時、常志強氏は見にきたかったが、来れなかった。1997年、彼はテレビで日本右翼勢力が侵華日本軍の犯した南京大虐殺の罪を否認するニュースを見て、怒りを覚え、一晩眠れなかった。翌日、書き上げた資料を記念館に届けてきた。

  2005年12月、常志強氏は日本の長崎、岡山、熊本に来て証言集会と平和交流に加わった。2015年、アメリカの南カリフォニヤ大学の招待を受けて、そのグローバル会議で“生存者のストーリーを記録する重要性”に関するディスカッションに参加し、しかも『Two sides』という記録映画の撮影に参与した。

  常志強氏は晩年になっても、相変わらず歴史を語るために駆け回っていた。

  2022年12月29日に亡くなられ、享年94歳である。

  馬庭禄氏は1934年3月に生まれ、祖籍は南京である。1937年日本軍が南京を侵入し占拠した時、馬庭禄氏の家族は七家湾大輝复巷に住んでいた。家が貧しいため、地方へ逃げることができなくて、馬庭禄氏は祖母、伯父、父親、母親並びにおじの温志学、楊守林と一緒に金陵大学の難民区に逃げこみ避難した。父親の馬玉泉氏は茶店の手伝い人で、当時25、6歳だった。馬庭禄氏は生前、以下のように口述した。日本軍が南京の城に入ってから、あちこちで青壮年を捜査して逮捕したり金陵大学の難民区に突進して人をとらえたりした。まだ幼い馬庭禄氏は祖母の懐に隠れていた。父親の馬玉泉、おじの温志学、楊守林は日本軍に縄で縛られて大きなトラックに押し寄せられた。日本軍の「苦力的干活!」の叫び声の中で、たくさんの人が捉えられ、何台のトラックに詰められて、運送されていった。家族や親戚は捉えられていったきり、帰って来れなかった。

  「いくら待っても父は帰ってこなかった。後になって、日本軍に殺されたのだと知った。集団で南京の下関川辺で機関銃で撃ちまくって射殺されたのだ。当時、川水が真っ赤になり、死体が山のように積んだ。人が死んでから、日本軍は死体にガソリンをかけて燃やし、痕跡を消そうとした。」と馬庭禄氏は生前、こう話した。

  1945年日本が無条件投降を宣告した後、11歳の馬庭禄氏は南京朝天宮民族小学校に入った。小学校を出てから、南京第三中学校で勉強した。1955年、21歳の馬庭禄氏は中国西北の建設に支援しようという呼びかけに応えて、青海省西寧市の郵電局に来て働き、そこで五年の青春時代を捧げた。

  1960年、馬庭禄氏は南京に戻り、大輝复巷のあるコミュニティで町内会の主任を務めた。1965年、南京建邺区建築公司に異動し青年団支書記を受け持ってから、二十年間変わらなかった。体の調子がよくないため、1987年定年した。

  2017年から2019年までの三年間の清明節に、馬庭禄氏は一回も欠かさず記念館に来て、清明祭活動に出た。2018年清明節、記念館は『重生・繁衍――南京大虐殺生存者家族の影像展』を行い、新華社が2017年に撮影した30戸生存者家族のそろった写真を展示した。馬庭禄氏はその時自分の家族揃いの写真の前に長い時間立ち止まった。

  ここ数年来、記念館は馬庭禄氏の健康状態に気を配った。南京侵華日軍被害者支援協会はたびたび「南京大虐殺生存者健康ケアサービスチーム」、江蘇省人民病院の医療関係者を組んで、お宅まで見舞いに来たり、血圧を測ったり、健康ケアサービスを提供したりした。

  2022年3月、馬庭禄氏が88歳の誕生日を迎えた。コロナウイルス流行にあたり、記念館のスタッフはオンラインでお花、誕生日ケーキ、ミルク、桂花ダックなどのプレゼントを注文して馬庭禄おじいちゃんに贈り、電話でご健康長寿を祝った。今年、お誕生日はまだなのに、馬庭禄おじいちゃんは他界してしまった。享年89歳だった。ご冥福をお祈りします!


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